わさびに一目惚れして生産者へ
北アルプスの豊富な雪解け水が伏流水となって豊富に湧き出す長野県安曇野(あづみの)市。この町に生産量全国一位を誇る特産品がある。日本人の食生活とは切っても切り離せない香辛料、わさびだ。
わさびの産地と言えば、静岡県を思い浮かべるかもしれないが、実は生産量では長野県がダントツの1位、約4割強のシェアを誇っている。その中でも9割以上は安曇野市で作られているというから、実際には全国の半数近くが安曇野産ということになる。
わさびには、主に料亭などで根の部分をすりおろし、刺し身に添えたりする「沢わさび」と、茎や葉を使い、市販されているチューブの練りわさびなどに加工される「畑わさび」といった2種類の異なる栽培方法を用いたわさびが存在。名産地と名高い地域では、沢わさびと呼ばれる水耕栽培が盛んで、中でも安曇野市は市内に湧き出る「安曇野わさび田湧水群」が、環境省選定の名水百選に選出される県内有数の名水地。一日あたりの湧水量は約70万トンを誇り、真夏でも水温は15℃を超えないため、常にきれいな水が大量に流れ続け、一定して15℃前後の低水温に保たれていることが品質の善し悪しを決めるといわれるわさび栽培にとって、この上ない好条件なのだ。
この町に、多くのわさび農家から注目を集めている人物がいる。市内で一番新しいわさび専門の農業法人「わさびや游」の代表を務める松本遊穂さんだ。奈良県出身の松本さんは、スノーボード中心の生活を送りたいと20歳で同じ長野県の白馬村に移住。それからというもの、“冬はゲレンデ周辺の宿泊施設での調理補助、夏は麓の農園での季節労働”というワークスタイルを貫き、スノーボードに明け暮れる日々を過ごしていた。ところがある年、松本さんは従事していた安曇野市内の大規模なわさび農園で、わさびの持つ魅力と奥深さに惹かれはじめる。ちょうどその当時、一軒のわさび農家が高齢を理由に引退を考えていたのだが、それがきっかけとなり、スノーボード浸けの生活から一転、その方が保有していた安曇野市内のわさび田を継承することになった。
定植を開始してから数年後には、周辺の荒廃農地の再開墾も行い、徐々に農地を拡大。平成30年には法人化するまでに至った。まだまだ若手ながら、長野県内の品評会においては最優秀賞にあたる長野県知事賞を受賞するなど、県内外からの評価も高く、持ち前のバイタリティも追い風となって、熟練のわさび農家と対等に渡り合っている。
料理を活かす個性ある“わさび”
主に松本さんが栽培しているのは、通称・青茎系と呼ばれる、茎が緑色のわさび。これまで、わさびの最高峰と言われる「真妻(まづま)」をはじめ、あらゆる品種の栽培に挑戦してきたが、安曇野の風土に合うものを日々研究し、現在は青茎系8品種を栽培している。“わさび”と一括りにされがちの品種にも、じつは辛味や粘りといった個性があり、近年では多様化する食生活や飽食の影響もあってか、あえてシーンによって使い分ける料理人も増えているようだ。
例えば「正緑(まさみどり)」は濃い緑色で力強い辛味と甘みが強いが、同じ青茎系でも「イシダル」は色が薄く繊細な辛味と上品な甘みが感じられる。
これらの個性は生育環境によってもずいぶん変わるから、ますます面白いのだと松本さん。
同じ水耕栽培を用いた沢わさびの名産地、静岡県伊豆市と安曇野市でも、わさび田の作りからして全く違う。
上流から下流へと下る沢の流れを利用し、そこに棚田を設ける静岡県のわさび田に対し、安曇野市では、湧き水が出るまで地面を掘り下げ、そこに若干の傾斜と畝(うね)を設け、湧水の流れを作る。
雪解け水が伏流水となり湧き出る水温の低い湧水を利用して栽培される安曇野産わさびは、温暖な気候で育ったものに比べて成長速度こそ遅くなるが、時間をかけてじっくりと成長するため、高密度となり旨味が凝縮する。松本さんのわさび田は安曇野市内でも特に水温の低い地域にある上に、砂作りと呼ばれる砂地土壌のため根が緻密にはり、ますます成長に時間がかかるから味の凝縮はなおさらだ。また一年を通して気温が激しく変化する特有の気候が辛味のもととなるストレスをわさびに与え、それが複雑な味わいを生み出す要因となる。
松本さんは、こういった地域の特色を最大限活かしたわさび作りを目指している。
そんな中、いよいよオリジナル品種の「アズミドリ」も完成し、2023年には初出荷を予定。
5年の歳月をかけ開発したアズミドリは、安曇野市の寒さにも強く生育旺盛な品種。爽やかな緑色で奥行きのある辛味と程よい粘りが特長だ。また、わさびを使ったクリームチーズやクラフトビールの開発など、従来の概念に囚われないアイデアを活かしてわさび作りを行う松本さん。Iターン就農者として多角的にわさび作りを見て触れたからこそ、新しいものを悪とせず積極的に取り入れ、最先端の技術と伝統農法を融合。結果として品質のベースアップが実現できたのではないだろうか。