より良い暮らしのため、民藝の器づくりを実直に「出西窯」/島根県出雲市斐川町

日常の道具の中に美を見出す「民藝(みんげい)」。その教えを直接受け継ぎ、今も器づくりを続けているのが島根県にある出西窯(しゅっさいがま)だ。ここで生まれる器には、窯名や作り手の名前が記されていない。それでも人々に選ばれ続け、70年以上も作り続けられてきたのはなぜだろうか。その背景には、器そのものだけでなく、時代の変化に応じて暮らしの在り方まで提案してきた点にある。

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ライフスタイルから提案する窯元・出西窯

島根県東部、出雲平野の田園風景が広がる出雲市斐川町(ひいかわちょう)に、暮らし全般を発信する複合施設「出西 くらしのvillage」がある。敷地内には器の店やセレクトショップ、ベーカリーカフェが揃い、足を踏み入れると商品がずらりと並ぶ店内へと自然と引き込まれていく。

運営するのは民藝運動の精神を受け継ぐ窯元・出西窯。

「地域の方に楽しんでもらえる場をつくりたかったんです。器を使ってもらったり、洋服を手に取ったり、パンを選んだり。暮らしそのものを体験できる場所にしたくて」と振り返るのは出西窯の代表・多々納 真(たたの しん)さん。たとえば冬のグラタン皿は、実際に使ってみて初めて良さが伝わることも多い。“いいね”となり、そのまま購入につながることは少なくないという。

ここでは、暮らしの中でどう使われるかまで含めて商品提案がなされている。こうした考え方の背景には、戦後に出合った考え方に端を発している。

始まりは戦後。地元で生きる道を模索して築いた共同窯

出西窯の始まりは1948年。戦時中は物資が乏しく、“贅沢は敵”とされる中で、生活の中の“美しさ”は後回しにされてきた。そうした時代を経て、美しいものをつくりたいと、5人の若者が器づくりに取り組むことに。彼らは幼なじみで、いずれも農家の次男・三男。家業を継がない立場として自分たちの生きる道を模索するなかで、生活も支え合える“共同体”として窯を築く道を選んだ。

創業当初に目指していたのは、美術的価値の高い焼き物だった。しかし1949年、松江市在住の工芸家・金津 滋(かなつ しげる)氏から、“あなたたちには何も志がないみたいだ”と厳しい指摘を受ける。そしてこのとき、金津氏から手渡されたのが、民藝運動の父と呼ばれる柳 宗悦(やなぎ むねよし)の著書『私の念願』だった。自分たちの器づくりを見つめ直す中でこの本を読み込み、その思想に深く感銘を受けた。

民藝運動の牽引者・河井寛次郎との出会い

当時、日本では民藝運動が広がり始めていた。機械化や西洋化が進む中で、手仕事の価値や、暮らしの道具に宿る美しさを見直そうという考え方である。 

そうした民藝の考え方に共鳴した創業メンバーは1950年に京都へ赴き、民藝運動の中心的推進者の一人である河井 寛次郎氏を訪ねた。その後、河井氏は出西窯に足を運び、“毎日の生活道具を徹底的につくりなさい。人に喜ばれるものをつくりなさい”という考えを示し、日々使われる生活道具をつくることの大切さを伝えた。

さらにバーナード・リーチ氏らも、指導にあたった。リーチ氏はウェットハンドル技法と呼ばれる把手付けの技術や、洋食器づくりを伝えた。こうして出西窯は、実用の中に美を見出す「民藝」の思想を軸に据え、歩み始めた。やがて使い心地の良さが評判を呼び、次第に人々の暮らしの中へ広がっていった。

名を刻まない器に宿る価値

出西窯では商品に窯名や作者の名前を記すことはない。それは、民藝の思想に基づき、個人の名声ではなく、名もなき手仕事の積み重ねに価値があると考えているからだ。

1989年、出西窯は第10回日本陶芸展で優秀作品賞を受賞した。国内最大規模の陶芸公募展であり、その評価は出西窯が追求してきた用の美が認められた瞬間でもあった。

受賞作品・縁鉄砂呉須釉皿(ふちてっさごすゆうざら)の人気は高まり、深い青の色合いはやがて出西ブルーと呼ばれるようになる。

しかし、実際に賞を受けたあとも、特定の作者を前に出すことはせず、共同体としてのものづくりを続けてきた。誰か一人の作品ではなく、窯全体で生み出すものとして器を届ける。その姿勢こそが、創業時から変わらない出西窯の在り方だ。

日常を良くするものを手仕事で

こうして受け継がれてきた民藝の思想は、今なお息づいている。創業80年を目前に控え、職人は16人に増えた。出西窯の器には、土の質感や豊かな色合いがそのまま生きており、手に取ると形・重みがしっくりと馴染む。実用的でありながら、使うほどに愛着が深まるイメージが自然と湧いてくる。

登り窯がつくる、唯一無二の風合い

器の焼き上げには、伝統的な登り窯と現代的な灯油窯・電気窯を使い分けている。なかでも登り窯は、年に3〜4回だけ使われる特別な存在だ。登り窯は、斜面に沿って連なる薪窯で、炎の流れや灰のかかり方によって、器一つひとつに異なる表情が生まれる。だがその分、職人は数日間つきっきりで炎と向き合う必要があり、手間も負担も大きいため、使う窯元は少なくなっている。

「伝統をつなぐことと、炎をコントロールして窯を焚く技術を身につけるためにやっています。器づくりは、粘土から器への変化を覚えることが大事なんです」と多々納さん。窯内の温度が1,200〜1,300度になるとオレンジ色の光に包まれ、まるで神様がいるような幻想的な光景になるという。

使い手に誠実に、暮らし方の提案を多方面から

1998年には、敷地内に展示販売場くらしの陶・無自性館を設けたことで、窯元に足を運ぶ人が徐々に増えた。器を売るだけでなく、暮らしの中で役立つ道具を届けるという考え方は、こうした場づくりにも受け継がれている。 

創業時のデザインを受け継ぎ、新たな可能性も探求

食器を中心に、花器や酒器など幅広い商品を手がける出西窯。なかでも人気は、バーナード・リーチ氏の指導のもとで生まれたモーニングカップだ。100年、200年経っても変わらないものをつくりなさいという教えのもと、70年以上つくり続けている定番である。年間3,000〜4,000個を製作し、すぐに使い手のもとへと渡っていく。

一方で、新しい器づくりにも積極的だ。複数の職人がいる強みを生かし、それぞれが“使い手にとって何が良いか”を考え、形にしている。

実用性をひたすらに追い求めて

コロナ禍には、キャットボウルという新たな商品が生まれた。食べやすさや飲みやすさを追求し、食事中に猫のヒゲが当たらず、吐き戻しが起きにくい高さと形状を実現。猫にも飼い主にもやさしい器として支持を集めた。使い手に徹するのが我々の流儀で、お役立ていただける確信がありました、と開発者は迷いのない瞳で語る。今後は、障がい者や子どもなど、多様な使い手にとって使いやすい器づくりにも取り組んでいきたいという。

人々に喜ばれる器を、これからも

出西窯が目指すのは、使う人にとって心地よいかどうか。装飾や個性を競うのではなく、手に馴染み、長く使える実用性を磨き続けてきた。

その器は決して主張しすぎない。それでも、使うほどに良さが伝わり、気づけば食卓にあり、暮らしの中に自然と溶け込んでいく。名を掲げずとも選ばれ続けてきた理由は、そこにあるのかもしれない。

創業以来受け継がれてきたのは、“人に喜ばれる生活道具をつくる”という民藝の精神である。時代が変わっても、健やかで丈夫に、そして長く使い続けられる器を届ける。その思いを受け継ぎながら、出西窯はこれからも暮らしをより豊かにする器づくりを続けていく。

ACCESS

出西窯
島根県出雲市斐川町出西3368
TEL 0853-72-0239
URL https://www.shussai.jp/
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