「恋し浜ホタテ」。なんて素敵なネーミングだろう。ホタテの産地・岩手県沿岸部の中でも、大船渡市三陸町綾里(りょうり)・小石浜(こいしはま)漁港の「恋し浜ホタテ」は、ブランドホタテとして名高い。生産者で岩手県漁業士会の会長でもある佐々木淳(じゅん)さんは、震災を乗り越え、質の良いホタテを作り続けている。
「小石浜ホタテ」の産地、大船渡市小石浜とは

三陸沖は、北からの親潮と南からの黒潮がぶつかる潮目があり、世界でも有数の漁場として知られている。青森県、岩手県、宮城県の3県にまたがる三陸の中でも、岩手県の沿岸はいくつもの湾が連なり、ノコギリの歯のような地形をしたリアス海岸が特徴的だ。
岩手県沿岸南部に位置する大船渡市は、吉浜湾、越喜来(おきらい)湾、綾里(りょうり)湾、大船渡湾と、いくつもの湾があり、古くからさまざまな漁業が営まれてきた。波の穏やかな湾では、ワカメやホタテ、ホヤなどの養殖業が盛んに行われている。
大船渡市三陸町綾里の小石浜(こいしはま)は、特にホタテの養殖に力を入れてきた。小石浜の漁師で、岩手県漁業士会の会長・佐々木淳(じゅん)さんは、父の代から漁師を受け継ぎ、この地でホタテの養殖を営んでいる。
「恋し浜ホタテ」とは

岩手県産のホタテはかねてより、中央の市場でも評判がよく、1985年ごろには築地市場で日本一の卸値をつけたことがあるほどだ。
佐々木さんは2008年、小石浜青年部を立ち上げた。それまで、小石浜の漁師たちは、ホタテを市場に出荷していたが、それでは浜の名前が表に出ない。そこで綾里漁協組合を通じて、自分たちが育てたホタテを一般の消費者に直送できるように販路を開拓。そのホタテを「恋し浜ホタテ」とブランディングした。「小石浜」の読みを「恋し浜」ともじったネーミング。なんとも響きが良い。
漁港の近くには三陸鉄道が走る。2009年には駅名も「恋し浜」に変更。今では恋愛のパワースポットになり、駅の待合室にはホタテの貝殻に願いごとを書いた絵馬が飾られている。
良質なプランクトンがホタテを育む

越喜来湾の景色を見渡すと、広葉樹が多いことがわかる。広葉樹は秋になると落葉し、腐葉土になる。この腐葉土の養分を含んだ海水は、海の生物の栄養になるのだという。一方、親潮と黒潮がぶつかる三陸沖では、植物プランクトンが生まれ、その植物プランクトンを餌にする動物プランクトンが集まるという。
沖からのプランクトンと山からの養分を含む大船渡の内湾は、ホタテにとってとてもいい環境だ。小石浜では、こだわりを持って育てたホタテの中でも一定の基準をクリアしたものだけが「恋し浜ホタテ」として、販売されている。
大船渡で生まれた耳吊り式の養殖

ホタテの養殖は、4月から6月に北の海から親潮に乗って流れてくるホタテの幼生(ラーバ)を採取することから始まる。5月に採苗したラーバは9月には1㎝ほどの大きさになり、ひとつのかごに50個のホタテの稚貝を入れたものを20段作る。ホタテが育つにつれ、かごの中のホタテが密になってくるので数をへらし、12月には25個に、2月は10個と減らしていき、約1年かけて直径8㎝のホタテに育てる。
直径8㎝に育ったホタテは、貝殻に穴を開け、ロープに吊るして養殖する。この養殖の方法を「耳吊り式」という。現在は、青森から宮城まで実施されている養殖方法だが、実は、大船渡で考案された養殖方法である。

「耳吊式」が確立したのは1960年ごろ。入り組んだ湾と水深が深い大船渡で効率良くホタテを育てるために考案され、現在に至る。大船渡には北海道のような遠浅の砂浜がほとんどないため海底で育てる「地まき式」の養殖ではたくさん収穫することができない。そのため、水中に吊るしたロープにホタテを吊り、深さを活かしてできるだけ多くのホタテを養殖しようと考案された。海底にホタテがつかないため、貝の中に砂が入らないという特長もある。
大船渡の湾内の水深は約40m。その地形を活かし、ホタテの養殖は盛んに行われるようになった。
質の良いホタテのため、手間を惜しまない

ロープに吊るしたホタテは、湾内で約1年かけて大きく育つ。幼生から数えると約2年で出荷される。恋し浜ホタテは、漁場が限られているので、一枚一枚のホタテの質の良さで勝負する。
佐々木さんは、質の良いホタテを育てるために、貝と貝の間隔をあけ、1年間に2回以上貝殻の掃除をしている。貝殻には、海藻やフジツボなどが付着する。これらを定期的に除去しないと、ホタテが餌にしている栄養を海藻やフジツボに取られてしまう。それだけでなく、付着物のぶんロープが重くなり下がってしまう。
ただでさえ、ホタテが大きく成長すると、ロープが下がってくる。このロープの高さを調節するのも漁師の仕事だ。「ホタテはロープでつられているので、餌が豊富にある深さに吊って置くために、一年中高さの上げ下げをしています」と話す佐々木さん。太陽の光が届くかどうか、潮の流れが早いかどうか、長年の経験からロープの上げ下げをおこなっているのだ。佐々木さんは、貝殻の掃除や、ロープの調整など、こだわりを持ってホタテを育てている。
震災を乗り越えて

綾里漁協で直販する「恋し浜ホタテ」は、ブランディングに成功。肉厚の貝柱、甘みがあってそのまま食べてもおいしいと評判になり、注文数も増えていった。しかし、2011年3月。東日本大震災が発生。小石浜にも津波が押し寄せた。
「東日本大震災の時は海にいました。初めて海ごと揺れるというのを経験して、これはただ事ではないぞと思い、浜に帰ったら大変なことになっていました」と佐々木さん。震災後はすぐに漁を始められる状況ではなかった。漁港は地盤沈下、荷捌き(にさばき)所も流失していた。
被災してすぐ、恋し浜ホタテを通じて知り合った人たちから応援の声が寄せられた。支援に駆けつけてくれる人もいた。そんな中、被災した漁港を支援してくれる海外のボランティア団体が現れ、佐々木さんは漁港の現状や復興のために何が必要かなどの交渉を行った。「恋し浜ホタテ」をブランド化した持ち前の機動力と、社交的な性格を活かし、海外の要人にも臆することなく、対話したことが功を奏した。
海外からの支援のおかげで2014年には地盤沈下した漁港が整備され、小石浜に荷捌き所が完成。沿岸の中でも復興のスピードは早いほうだった。漁港や荷捌き所の復興とともに養殖を進めていたホタテも出荷の時を迎え、2014年、荷捌き所でホタテの貝殻の掃除や、仕分けをして、質の良いホタテを出荷できるようになった。
支援団体から「恋し浜ホタテを知らなかったらここに来ることもなかったかもしれない」と言われたという。佐々木さんは「(恋し浜ホタテを)始めた当初は『何やろうとしてるんだ』と言われたこともあったけど、やっていて良かったと思う」と話し、支援や人のつながりに感謝する。
妻のイザベルさんと海へ

佐々木さんは、妻のイザベルさんと震災後に知り合った。フランスの内陸出身のイザベルさんは、子どもの頃から空手の稽古をしており、日本の文化に興味を抱いて育った。日本の大学を卒業し就職したイザベルさんは震災後、大船渡にボランティアとして何度も足を運んだ。当時東京で仕事をしていたイザベルさんだったが、大船渡は第二の故郷のような存在となっていった。
震災後、通訳として、佐々木さんの取材に同行したこともあったという。2020年には佐々木さんと結婚。現在は、観光ガイドや通訳をしながら、佐々木さんと一緒に海へ漕ぎ出し漁師をしている。
「フランスでは、魚介類はあまり食べない方でしたが、ホタテは好きでした。でも、恋し浜ホタテを食べたらびっくり(笑)『なんて美味しいの?』って思いました」と陽気に笑う。
海は大船渡とヨーロッパをつなぐ

フランスではホタテのことを「コキーユ・サンジャック」と呼ぶ。これは「ヨーロッパホタテ」と言い、厳密には日本のホタテとは種が違う。だが、フランスから遠く離れた日本の三陸沖では時折、採苗器の中にコキーユ・サンジャックが入っていることもあるという。日本のホタテより、少し貝殻がふっくらした形でボッティチェッリの絵画「ヴィーナスの誕生」で描かれている貝がそれである。
つまり、海はつながっている。そう考えると「恋し浜ホタテ」のストーリーに海の男のロマンを感じる。
これからも質の良い「恋し浜ホタテ」を届ける

地球温暖化は海にも多大な影響を及ぼしている。親潮(寒流)と黒潮(暖流)がぶつかる場所が、北上しているのだ。暖流の勢力が強く、本来なら茨城沖で取れるはずの伊勢海老の漁場も北上しているという。
ホタテは寒い環境を好む。水温が5℃を下回ると冬眠するホタテは冬眠後、水温が上がったときに栄養を摂って大きくなる性質がある。近年は、温暖化で水温が5℃を下回ることがなくなってきた。冬の海水温が下がらないため、ホタテは冬眠の機会を失ってしまう。夏の疲れが癒えぬまま、次の夏がやってくるようなものだ。中には、大きく育たないまま死んでしまうものもある。
漁師の仕事は自然が相手だ。環境の変化によって次の年がどうなるかわからない。それでも「俺たちはホタテを諦めない」と話す佐々木さん。「恋し浜ホタテ」の質を守り続けたいと力を込める。たとえ海が変わったとしても、漁師としての矜持を持ち、海で生きる。腕組みして海を見つめる佐々木さんの横顔に使命を背負う者の覚悟を感じた。



