岡山の焼き物といえば、備前焼。時間をかけて焼き締める、土味の濃い焼き物だ。伊勢﨑晃一朗さんは、備前焼作家の祖父と父を持ち、作陶が身近な環境で育った。しかし備前焼をつくりたいと思ったのは意外と遅く、彫刻を学んだ大学を卒業する頃。土を使った立体造形にひかれている自分に気づいた。
800年前から現在に続く日本六古窯
備前焼は、平安時代から戦国時代、いわゆる中世に発生し、現在でも生産を続ける代表的な陶磁器窯として、瀬戸焼や信楽焼、越前焼、常滑焼、丹波立杭焼とともに古陶磁研究家・小山冨士夫氏により命名され、2017年には日本遺産にも認定された「日本六古窯」のひとつ。その産地は、岡山県の南東部に位置する備前市伊部(いんべ)周辺にある。この地域で採れる鉄分が豊富な土を使い、釉薬を使わない「焼き締め」により備前焼の茶褐色が生まれる。窯焚きに1週間以上の時間をかけ、ゆっくりと温度を上げて焼成することで堅牢になる。加飾を施さない焼き物だが、窯詰めの配置や、窯焚きの薪の焚べ方により、さまざまな色合いと模様を生み出せる。
時代に適応しながら、現在に続いてきた技法
その始まりは、およそ800年前。平安時代の末期、陶工の集団が豊富な陶土と火力の出る薪を求め、この地に移住してきたといわれる。鎌倉時代には擂鉢(すりばち)や壺、瓷(かめ)などの日用雑器がつくられるようになった。安土・桃山時代になると茶の湯が流行し、千利休、豊臣秀吉は茶会で備前焼の水差しなどを茶道具として頻繁に用いたことが記録されている。
「備前焼の陶工は、この場所で採れる土と焼き方で、時代の欲するものをつくり続けてきた。都の茶人から『こういう形を』と所望されても、そのままをつくれるわけではない。粘りが強く、コシがある自分たちの土でつくるものは、それに適した形になる。できるものを一生懸命考え、適応してきたんじゃないかと思います」。伊勢﨑晃一朗さんは、いにしえの備前の陶工にそんなふうに思いを馳せる。
大学で彫刻を、アメリカで焼き締めを学ぶ
伊勢﨑さんは1974年、備前焼作家・伊勢﨑淳氏の長男として備前市伊部に生まれた。父と弟子たちが忙しく立ち働き、書棚には彫刻や美術の作品集が並ぶ環境で育った。当然、創作は身近なもので、いつも頭の中にあった。大学では彫刻を勉強したいと思い、東京造形大学美術学科に進んだ。家を出るとき、父に「焼き物はやらないと思います」と伝えると、「ふうん」という反応が返ってきたという。木材の彫刻をしていたが、卒業間近になると、土を使って、立体造形をしてみたいと思うようになった。卒業後、1年間父のもとで勉強し、それから父の長年の友人で、アメリカを代表する陶芸家であるジェフ・シャピロ氏に師事するため、アメリカに渡った。
ニューヨーク郊外に工房を持つシャピロ氏のもとで2年間、焼き締めによる焼き物を学んだ。ろくろを引くとき、目の前の土とセッションをしているように見えたシャピロ氏の動きを見つめる日々と、多くの人との刺激的な出会いを経て、伊勢﨑さんの備前焼に対する立ち位置が変わった。「備前焼をつくりたい、器をつくりたい、というより、土を使った立体造形を、薪で焼き締めてやりたい。土のものの良さを誰かと共有し、共感したい」。そこが備前焼への入り口となった。
父と並んで制作する
伊勢﨑さんが30歳になったとき、父の伊勢﨑淳氏が備前焼で重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。現在、父と息子は同じ敷地にあるそれぞれの工房で制作をしている。伊勢﨑さんから見た父・淳氏の作品は、ひとことでいうと「おおらか」。人となりが出ていて、つくったものが人を威圧しない。一方、伊勢﨑さんの作品は伝統的技法を守りながら、土から受ける強いエネルギーを表すかのようなユニークな造形があり、さまざまな色合いと質感のなかに、細やかな表現力がある。ふたりの窯は工房の裏山のふもとに3つ並んであり、全長約15メートルの最大の窯と約10メートルの中型の窯を淳氏。伊勢﨑さんは同じ中型の窯と全長約5メートルの小さな窯を使い、年に2、3回窯焚きをしている。
窯詰めで絵を描く
備前焼の仕上がりを決めるのは、窯詰めの作業だ。窯のなかに数100個の作品を並べるため、炎の当たり方や灰の降り掛かり方を読んで、焚き口からの距離や大小異なる作品の配置、炎に対する角度などによって「焼け」(仕上がり)をコントロールする。「窯詰めで絵を描く」という言い方をするが、作品をひとつずつ並べるのはパズルのようだという。基本的に炎が当たったところは赤褐色に、物の影なり炎が当たっていないところは白色に仕上がる。アカマツの薪の灰が表面に降りかかり、高温で溶けることで備前焼の特徴である「胡麻(ごま)」など(自然釉による)模様が生まれる。どれほど長さのある窯でも、前と奥はつながっていて、置かれた作品同士は影響する。そのため成形の段階から、どの場所にどのように置くかをイメージしながらつくっている。
とはいえミリ単位で狙った焼けが生み出せるわけではない。「すべてを思い通りにしたいなら、このやり方を選ばない。その中に何か大事なものがあると信じている人がこの土地でこの焼き物をしているんだと思う」と伊勢﨑さんは言う。以前、違う種類の土を使い、電気窯でやってみて、薪を使った窯から生まれる情緒に生かされていることを痛感した。「自然相手だと不確定要素が多い。でも、そういうものと付き合える能力が大事なんじゃないか。絶え間なく変わる環境で、創作を成り立たせていく感覚を失わずにいたい」と語る。
窯焚きは自然と交わる感覚
窯焚きには、約15メートルの窯で13日間、5メートルの窯で1週間かける。土の収縮が大きいため、最初に温度が上がりすぎてしまうと壊れやすくなるため、ゆっくりと温度を上げる。それぞれの窯にセオリーがあり、予定する温度と日数で焼き上がるよう薪の量、焼成の時間を計算し、3人が8時間おきに交代しながら昼夜、焚き続ける。この時間が伊勢﨑さんは好きだという。頭を整理する時間になるからだ。そして最後の1日半は「攻め」や「大焚き」と呼ばれる本焚きで、前の扉は閉じて窯の横穴から薪を焚べる。すると灰が全体に飛ぶ。温度が上がり、土を焼き締めて高温で灰を溶かす。最高温度は1250〜1260度。焼き物にするだけであれば4、5日で足りるが、緋色の深みなど、つくり手の欲しい「焼け」を求めると、これだけの日数になる。
薪で焼くことの魅力は、自然と交わっている感覚だという。「木も命のあるもので、それを燃やさせてもらう。脂分が多く、燃やすと高温になるアカマツを使うことは、先人が見つけた知恵のひとつ。同様に、土も天然資源であり、有限。備前焼が現在まで続く技法になったのは、数100万年という時間をかけてできたこの土があるからで、いただききもので成り立っている感覚が強い。農業や林業、酒造りに近い部分があって、農家が「おいしい」と思ってもらえるものをつくるように、材料の力を引き出すことが仕事だと思う。焼き締めの営みを続けることは自然にふれ続けることで、自然とともに生きていく人間にとって、備前焼は絶対に必要な焼き物だと信じている」。
まだ気づいていない焼き締めの力を探す
伊勢﨑さんは、2022年度日本陶磁協会賞を受賞した。陶芸界でその年、もっとも優れた作家に贈られる賞だ。人前に作品を出すようになって21年が経つ。祖父と父だけでなく、親戚にも備前焼作家が多い家で、自分を表現できるようになったのは、思いきって新しい試みを始めたとき、「おもしろい」と背中を押してくれる人との出会いがあったから。だから作品そのものが魅力的であることだけを追う。焼き上がったものを「良い」と自身で納得するには、まだほかの色合い、質感があるはずだと、まだ気づいていない焼き締めの力を探している。まだあるはず、もっとあるはず、という思いが底流にあり、そのフィロソフィーに基づいて、伊勢崎さんの作陶は日々アップデートを続ける。