信楽焼に代表される焼き物の町、滋賀・信楽町を拠点とする古谷 宣幸さんは、
日本のみならず欧米諸国など海外でも活動する陶芸家です。
繊細な技巧と洗練された美しさを宿す暮らしの器を、多彩な技法を用いて制作しています。
また、和洋を問わず使いやすいデザインも相まって、海外でもその名を知られています。
漆黒の地に、きらきらと輝く銀色の斑紋が浮かぶ「天目」と呼ばれる器。その神秘的な美しさは“宇宙を写した”と称され、織田信長をはじめ多くの歴史的人物や陶芸家を魅了してきた。現代における天目作家のひとり、古谷宣幸(ふるたにのりゆき)さんは、多くの作家が温度調節のしやすい電気やガスの窯を使う中、あえて薪窯を使い、新たな天目の表現に挑戦し続けている。
薪の炎が想像を超える作品を生み出す
古谷さんの工房があるのは、滋賀県の信楽町。ローカルな居酒屋の軒先などでよく見かけるたぬきの焼き物でも知られる「信楽焼」発祥のこの町は、周囲の山々で良質な土がとれることから鎌倉時代に焼き物づくりが始められ、日本六古窯のひとつにも数えられている一大産地だ。
「いい温度まで上がってきました」そういいながら迎えてくれた古谷さんが向き合うのは、すぐ目の前で赤い炎が燃えさかる「穴窯」。
薪をくべてじっくり焚き上げる昔ながらの窯で、古墳時代に朝鮮半島から伝わった日本最古の様式といわれている。温度管理が難しく焼きムラが出やすい一方で、炎の当たり方や灰の被り具合によって作品の表情が変わり、焼き上がる作品にひとつとして同じものがないのが穴窯の特徴だ。
「僕が作っているのは、天目と普段使いの器。もちろん灯油窯や電気窯を使うこともありますが、天目だけは必ず薪の窯で焼くようにしています。薪で焼く方が黒釉(こくゆう)の部分がより深く、存在感のある濃い黒になる感じがするので」。また、窯出しのたびにどんなのが出てくるかわからない、自分のコントロールと自然の力が相まって想像を超える作品が生まれるのも、薪で焼き続ける大きな理由だという。
国宝「油滴天目」を見たときの衝撃が忘れられず、天目の世界へ
古谷さんは、信楽に穴窯を復活させた陶芸家・古谷道生(みちお)さんの三男として生まれた。地元の高校でデザインを学び、大学進学を機に陶芸の道へ。天目の研究を始めたのは大学生だった18歳の頃で、美術館で見た国宝の「油滴天目」に魅せられたのが、天目の研究を始めたきっかけだという。
「父が信楽焼の陶芸家だったので、子どもの頃から昔ながらの信楽焼を見て育ちました。だから初めて天目を見た時、『こんな焼き物があるのか』と衝撃を受けて。父が作っている器とはまったく違いうものでしたが、釉薬のおもしろさに惹かれて天目の世界にのめり込んでいきました」。
大学卒業後は全国の焼き物の産地を訪ねながらさまざまな技術を学び、現在は信楽に工房を構えて日常使いの器を作りながら、天目の研究を続けている。
日本における天目の歴史
日本に天目が伝わったのは、鎌倉時代。茶葉の産地であった中国の天目山より、日本の禅僧が「天目釉」と呼ばれる黒い釉薬をかけて焼かれた茶碗を持ち帰ったのが始まりだ。当時は黒い釉薬、いわゆる“黒釉”のかかったすり鉢形の茶碗飲みを天目と呼んだが、ぐい呑みや徳利、花入などさまざまな形の器が焼かれるようになった今日では、黒釉のかかった焼き物全般を天目と呼ぶようになった。茶碗に現れた文様により「曜変(ようへん)天目」、「油滴(ゆてき)天目」、「禾目(のぎめ)天目」などの種類があり、室町時代の伝書には、天目の中で最高とされるのは曜変、これに継ぐものが油滴であるとの記述が残されている。現存する曜変天目は世界に4点のみ。そのすべてが日本にあり、全国各地の天目作家たちが希少な天目を再現するため、独自の表現を生み出すための研究を続けている。
油滴天目の研究
油滴と呼ばれる結晶は、窯で焼く時間や温度、釉薬の配合など、さまざまな条件が重なってようやく現れる。
「ごく普通に焼くと、黒地に茶色や銀色の細かい縦筋が無数に入った禾目天目の茶碗が焼き上がります。それを高温でもう一度焼くことで、釉薬がさらに溶けて油滴が現れる。高温で焼いている最中は、いわば釉薬がグツグツと沸騰してうごめいている状態。もしそこで出してしまうと表面がボコボコとしたクレーターだらけの茶碗ができ上がります。そこで出さずにさらに高温で焼き続けることで、釉薬から分解された鉄の結晶がクレーターの中に溜まり、黒釉の中に斑紋が広がったような油滴天目の模様が現れるのです」。
一般的な窯焚きと違うのは、焼きと同じくらい冷ます過程に重きを置いていること。天目は、温度を上げる過程で油滴の形が決まり、冷ます過程で色が決まるという。冷却にかける時間の長さによって油滴の色がさまざまに変化するほか、冷却時に吸わせるガスの量も油滴に作用するそうで、あえて湿った薪をくべて水蒸気を発生させることもあるそうだ。
初めて窯を開けた時の楽しみがずっと続いている
古谷さんが目指す天目についても聞いてみた。「僕は黒い部分はより黒く、油滴にはしっかりと輪郭を持たせるのが理想です。天目は、セオリーをつかんだと思ったら裏切られたり、想像以上のものが出てきたりするからやめられない。僕は簡単に同じもができ始めると飽きてしまう性格なのですが、天目は焼くたびに無限に変化します。温度管理がしやすい電気窯やガス窯で油滴の出方をテストすることはありますが、いざ穴窯という自然が大きく作用する環境で焼いてみると、テストとはぜんぜん違うものが出てくるからおもしろい。学生の頃に初めて窯を開けた時と同じ楽しみが、今も変わらず続いている感じです」。失敗も多いが、半分は自然が作り出すもの。それも含めて楽しいと古谷さんは笑う。
黒釉や粉引など、日常に溶け込む器作りも
天目の研究と同時に、日常使いの器も作り続けている。古谷さんの作る食器は、日常遣いに心地よい、モノトーンのシンプルなデザインが特徴だ。「料理を盛ってこそ器は生きてくる」という考えは、唐津の陶芸家・中里隆さんの影響が大きい。「中里先生を紹介してもらったのは、先生が信楽にある陶芸の森に講師として来られた時。2ヶ月ほど滞在されるということで、『僕はしばらくここにいるから、ここでろくろの練習をしたらいいじゃない』と誘ってもらったのが弟子入りのきっかけでした」。驚いたのは、中里さんがまずは滞在中に使う食器作りから取りかかったこと。皿や茶碗はその場で作り、持参した醤油さしや箸置きとともに並べてきちんとした食卓をつくる。その後、「アメリカに行くけど一緒に来ない?」と誘われて世界中、日本中を旅する中で、一緒に食事をして器を作って、衣食住をともにしながらあらゆることを学んだ。「自分たちが作った器で毎日ごはんを食べて、暮らす。そこにある土とそこにある窯で、自分を表現する。その体験がとても勉強になりました」。同行中には器の整形に役立つ「牛べら」の使い方を学び、ろくろの回し方に無駄がなくなって、食器を作るスピードが格段に上がった。古谷さんの器に同居する、どんな料理も受け止めてくれるおおらかさと繊細な美しさは、こうした経験によって培われたものだろう。
ゴールがないからずっと続けていける
どんな器が好きですか?という質問には「粉引の器はすっきりと白いものが好み。黒は永遠に挑戦し続けたいテーマで、マットな黒から光沢のある黒までいろんな黒を極めたいと思っています。こんな風にゴールがないものだから、ずっと続けていけるのかもしれません」という答え。器は日常の中にあるものとして、天目の研究とはまた別に、気持ちを切り替えて向き合える良い対象だという。こうして話している間にも、古谷さんの手からはなめらかなカーブを帯びた徳利や、洗練された形の小皿がするするとでき上がっていく。好奇心とエネルギーにあふれる古谷さん。これからの活躍が楽しみだ。
誤魔化しの効かない、ミニマルなものこそが一番難しいけれど、流行に惑わされず小手先の技術に頼らず、そのままの自分を轆轤で表現できれば、長い時を経ても飽きずに使い続けられる器になる。私が常日頃から感じていることです。使っているうちに、気づけば生活になくてはならない存在にまで成長するような器となりますように。