親鸞800年の教えを紡ぐ三重県初の国宝建造物、「高田本山専修寺」

親鸞800年の教えを紡ぐ三重県初の国宝建造物、「高田本山専修寺」

三重県で最も有名な神社仏閣といえば伊勢神宮だが、同社は国宝ではない。じつは県内で国宝に指定されている建造物はふたつ。そのいずれも県庁所在地である津市にある浄土真宗高田派の総本山・専修寺にあることをご存知だろうか? また、それらふたつの国宝建造物に加え、国宝の法宝物や国指定の重要文化財も数多く有する専修寺。その歴史と魅力について紹介していく。


親鸞と高田本山専修寺の歩み



「阿弥陀如来の力を信じ、『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えることですべての人は極楽浄土へ往生することができる。」

今から約800年前、親鸞(しんらん)によって開かれた浄土真宗の教えだ。 現在、浄土真宗は信者数1000万人、宗派は十派に分かれ、日本で最も多くの信者数を誇っている。

その中の一派、「真宗高田派」は三重県の中ほど、津市一身田町に本山を構える。それが「高田本山専修寺(せんじゅじ)」だ。

三重県初の国宝建造物を有し、津市の観光名所にもなっている。


浄土真宗を開いた親鸞上人


親鸞は1173年、京都の日野の里(現在の京都市伏見区)に生まれた。

時は平安時代末期、人々は戦乱や災害、疫病や飢饉により苦しい生活を強いられた。心の拠り所として加持祈祷(かじきとう)が盛んに行われていたが、農民や一般民衆には高額な祈祷料の支払いや厳しい修行をする余裕もない。

そんな中で人々の心を救ったのは、念仏を唱えるだけで極楽浄土へ阿弥陀如来様が導いてくれる「専修念仏」という教え、法然上人が開いた浄土宗だった。


9歳の時に出家して以降、約20年以上にわたって修行や勉学に励んだが、なかなか悟りの道を見出すことができずにいた親鸞は、法然の元を尋ね、浄土宗の門下となる。


しかし、それから6年が経った1207年、後鳥羽上皇の命により専修念仏を説いていた京都の僧侶たちは捕えられ、専修念仏の禁止が通達されてしまう。

修行を必要としない浄土宗の異端さは、他の仏教勢力からの弾圧を引き起こしていた。さらには法然の弟子である住蓮(じゅうれん)、安楽(あんらく)が後鳥羽上皇が寵愛していた女官たちと密通し、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったことにより、後鳥羽上皇の逆鱗に触れてしまったのである。


捕えられた11名のうち、7名は流罪、残る4名は死罪となる。

宗祖である法然は讃岐(現在の香川県)へ、その愛弟子であり、教えに傾倒する熱心な浄土宗門下であった親鸞は、越後(現在の新潟県)へと流されてしまう。


それから5年後、2人は赦免されるが、さらに1年後に法然が亡くなってしまう。法然との再会を待ち望んでいた親鸞であったが、法然の死を知ったため京都へは戻らず、越後で2年を過ごす。

その後、常陸(茨城県)の稲田を中心に20年に渡って関東に教えを伝えていくのであった。


そして1224年、親鸞の教えが全て書かれた「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の完著により、浄土真宗が立教されたと伝えられている。


高田本山専修寺の歴史



関東各地に布教を続けていた親鸞は、仏教において”太陽・月・星”を意味する三光天子のひとつで菩薩の一尊である虚空蔵菩薩の化身で、金星を仏格化した明星天子の夢告を得て栃木県真岡市高田に寺院を健立する。


その寺こそが、専修寺と呼ばれるものだった。

真岡市高田に建てられた専修寺は本寺と呼ばれ、そこを中心に活動した教団が高田派 として知られるようになる。

さらに第10代である真慧(しんね)の代になると、その勢力を大きく拡大していくのであった。


真慧は東海・北陸方面へと教化を拡げていき、三重県津市一身田(いっしんでん)にも専修寺を健立。

あくまで伊勢国内の中心寺院として建てられた一身田の専修寺であるが、1522年に栃木の本寺が兵火によって炎上したため、次第にこちらの専修寺に高田派では、浄土真宗を開いた親鸞に次いで徳が高いとされる歴代上人が居住するようになり、1550年前後に本山として定着した。


専修寺を彩る数々の見どころ



高田本山専修寺は東京ドーム約2個分と広大な境内を誇り、年間約30万人もの人が参拝に訪れる。国宝のお堂2棟は中に入ることができるため、間近でその様相を見られる。

もともとは現在の1/3程度の大きさだったが、1635年に専修寺15代堯朝上人のもとに、伊勢津藩初代藩主・藤堂高虎公の長女・糸姫が嫁ぎ、専修寺と藤堂家が姻戚関係になり、深いつながりになったことで次第に敷地が拡がったのだという。


広い境内には、国宝建造物である「御影堂」と「如来堂」が並び、宝物館には親鸞の直筆書物や、国宝に指定される「西方指南抄(さいほうしなんしょう)」と「三帖和讃(さんじょうわさん)」が収められている。

ここだけで4つの国宝を見ることができるというのだから、専修寺の歴史的価値は相当なものだ。


御影堂の裏手には、”中ノ島をもつ北寄りの池庭”と”二つの小島をもつ南の池庭”を折れ曲がった配置とし、中央の細い流れをもってつないでいる池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園、「雲幽園(うんゆうえん)」も造られている。

また雲幽園の中には、千利休の長男である道安と、織田信長の弟であり国宝の茶室「如庵」の作者でもある織田有楽斎の合作とされる茶室「安楽庵」が建つ。


専修寺は高田派の本山として厳かに、そしてきらびやかに歴史を繋いでいるのである。


三重県初の国宝建造物、「御影堂」と「如来堂」


境内の中核をなすのは、2017年に三重県初の国宝に指定された「御影堂」と「如来堂」だ。


御影堂は純和様建築であり、質素だが落ち着いた外観を醸し出している。全国の国宝木造建築の中でも5番目と、非常に大きな堂なのである。

屋根の端部分全体を銅板張りとし、屋根と壁の間にある破風板は金色に輝く五七桐紋の金具を貼りつけることで落ち着いた重厚感を感じさせる。

江戸幕府御用大工が好んだ構造をしていることから、お堂の棟梁と江戸幕府の関係が良好であったことが推測される。

また、堂内は段差があり、中陣と広大な外陣を持つ真宗寺院ならではの規格だが、本願寺系の本堂とは大間が横長になっている点・両余間の床が奥寄りのところで一段高くなっている2点で異なる。

これらの影響により、この後の高田派寺院建築の特徴となった。


その御影堂の西に位置するのが、如来堂だ。

建築面積は御影堂に比べるとおよそ半分程だが、阿弥陀如来の仏殿にふさわしい華麗な建築となっている。

面積こそ御影堂より小さいものの、屋根を二層にすることで棟の高さは御影堂とほぼ等しくなっており、本堂としての威厳が示されている。

そのため外観は二階建てのように見えるが、下層の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる三種の庇(ひさし)になっている。

また、上層の屋根の軒は″詰組(つめぐみ)″と呼ばれる唐様の建築手法によって建立されている。

象・龍・獏の彫刻がみられることや、中国の故事に基づいた人物の彫刻が組み入れられるなど、実に手の込んだ精巧な建築物となっている。



親鸞直筆の2つの書物

1962年、親鸞の生誕700年を記念し、天観室と収蔵室の二棟の宝物館が建造された。

特に厳重な防湿構造となっている収蔵室には、親鸞の恩師法然の遺文集で、現存する最古の書物である「西方指南抄(さいほうしなんしょう)」と親鸞が生涯に撰述した和讃 「三帖和讃(さんじょうわさん)」という親鸞直筆の2点の国宝書物が収蔵されている。


「西方指南抄」は上中下の3巻からなり、親鸞の師匠である法然の法語・消息などが記された書物だ。

「三帖和讃」は「浄土和讃」「浄土高僧和讃」「正像末法和讃」の三帖からなっており、日本の言葉で菩薩や高僧の徳をたたえた讃歌となっている。


美しい35種の蓮



蓮の花の名所としても名を馳せる専修寺。

35種類100鉢以上が咲き競うその景色を見に、毎年夏には多くの人が見学に訪れるという。

蓮は、極楽浄土に咲く花とされているが、同時に人間を表しているともされているとも言われている。

泥の中のレンコンから育ち、水面より上に茎を伸ばして花を咲かせる蓮だが、水面から上はいっさい“泥”という印象を感じさせることなく美しい。

「この泥は、私たち人間が煩悩(妬んだり、怒ったり、羨んだりする心)を持ちながら、生きている現世(社会)を表しております。その泥を生き抜いて、往生(死を迎える)すると、阿弥陀如来様の本願力により仏弟子となり救われていき蓮の花のように綺麗な花を咲かせますが、そのためには泥がないと育ちません」と、専修寺の住職は話してくれた。

専修寺を訪れた際には、その美しくも力強く咲き誇る蓮を見て、これまでの自分を振り返ってみるのも良いかもしれない。


ACCESS

高田本山専修寺
三重県津市一身田町2819
TEL 059-232-4171
URL http://www.senjuji.or.jp/