1958(昭和33)年創業以来、フグの本場である山口県下関市にて、
フグ専門の卸問屋として一筋に取り組んできた「畑水産」。
希少価値の高い天然ものから養殖まで良質なフグを幅広く扱い、
国内のみならず海外にも出荷実績を持つほどの卓抜した加工技術で、フグの魅力を伝える商品を作り続けています。
山口県が誇る全国屈指のフグのトップブランド「下関(しものせき)のフグ」。その地元・山口県下関市にて創業から65年、仲卸として長年フグに携わってきた「株式会社畑水産」。下関フグ仲卸のトップランナーが残してきた功績を辿り、下関フグの魅力に迫る。
日本で唯一! ふぐ専門の卸売市場「南風泊市場」
山口県下関市の南風泊(はえどまり)市場は、日本で唯一のフグ専門の卸売市場。そのため山口県内をはじめとした各地の漁場や養殖場から、活きの良い天然物、養殖物が本州最西端の同市場を目指し、陸路や海路、ときには空路を通じて運ばれてくる。
かつては、ほかの魚種も卸されていたのだが、フグの漁場が拡がり、水揚げ量が増えたことにより従来の市場規模では捌ききれなくなったため、フグのみを扱う専門市場として独立することに。こうして南風泊市場は、フグの取引に関する全般が単独で機能している日本で唯一の市場となった。
つまるところ、下関がフグで有名なのは、漁獲量が多いからだけではなく、各地から集められた様々な種類のフグを目利きする技術と知識を持った職人たちがこの市場に集まっているからなのだ。
そんな南風泊市場のセリでは、フグの大きさ、色味、目の色をチェック。サンプルとして、フグみがき(身欠き)というフグの有毒・不可食部位をすべて除去して可食部位のみにする下処理を施した上で、白子の有無、皮、身、くちばし、内臓など見せておく。これは、その日仕入れるフグがどんなコンディションなのか、捌いたあとの色味や肉質を見て仲買達に判断してもらうためなのだそう。
ちなみに、これは養殖フグに限ってのこと。養殖フグは同時期に同じ養殖場から出荷されるものは種が一緒なので、どこで養殖されたのかがわかれば、その中から一匹捌くだけで同じところから出荷されたほかのフグも大方どのような状態かわかってしまうのだという。 一方、天然のフグはすべて一点ものなので捌いても参考にならない。鮮度だって落ちてしまうから丸のままの状態で判断する。
セリの方法は独特で、筒状の黒い布袋の中で競り人と仲卸人が指を握って値段を決める「袋競り」という方法で南風泊市場の名物となっている。
この手法が誕生した背景には諸説あるようだが、落札をめぐり喧嘩が起こることを防ぐため他社の落札価格が見えない様に隠すようになったという説が有力のようだ。
値段が決まらず同数の時は、じゃんけんで決めるというから面白い。取材の日の最高額は、天然フグふぐで一箱20万。養殖フグふぐで一箱6万ほどだった。
セリをした後は2〜3日水槽内で泳がせることで、水揚げから移動までの間にトラフグが受けたストレスをしっかり取り除き、体内に残っている餌や老廃物をすべて排出させる。この工程を「活かし込み」と呼ぶ。そうすることでコンディションが良く、質の高い身になるのだ。
こうして、より新鮮で安全な状態で、東京中央卸売市場をはじめとした全国の市場へ送る。朝の5時までに下関を出発すれば、その日のうちに東京などの大都市圏の市場へ届くため、未だに下関では夜中からセリが始まる習慣が根付いている。
ちなみに、フグにはくちばしのように大きく丈夫な歯が4枚あり、サンゴや硬い貝を鋭く噛み砕くほど強い力を持っている。養殖フグふぐの場合は稚魚の頃から折っていることがほとんどだが、天然フグふぐはそのままにしておくと水槽の中で仲間同士噛み合って傷つけ合うため、良いフグは水揚げ後は必ず歯を折っておくのだそう。
そういった細かい気遣いこそ、下関のフグが日本一と称される理由のひとつだろう。
また、フグの種類は世界に約430種いると言われており、生息地は淡水や海水など様々。
日本では海水に生息しているフグしか発見されておらず、約60種のフグ類の分布が確認されているが、食べられる種類は決まっており、時期によって漁獲量も異なる。
なかでも最高級であるトラフグ。もちろん下関の市場においても、その存在は別格だ。
しかし天然ものは非常に少なく、水温が下がると身も締まって白子も大きくなるが、温暖化の影響でそういった品質の高い個体は年々獲れにくくなっており、より一層、希少価値が高まっている。
河豚は食いたし命は惜しし
フグと言えば毒のあるイメージが強く、取扱には専門の免許が必要なほど。それでもなお、人々を魅了してやまない。
その魅力はずいぶん古くから知られていたようで、日本では縄文時代から食されていたという。
「河豚(フグ)は食いたし命は惜しし」ということわざもあるほど、その身は高たんぱく、低脂肪であっさりとしているが、旨みと甘みに富み、コリコリとした弾力のある歯ごたえで、ひとくち食べれば忘れられない白身魚の王様として愛されている。
ところが安土桃山時代、有毒部位が明確に判明していなかったこともあり、フグ毒による中毒死が続出。そのため豊臣秀吉公が「河豚食禁止令」を出したと言われ、それからしばらくフグは食べてはいけない魚となってしまった。
ちなみにフグ毒の成分であるテトロドトキシンは、フグの学名である(Tetraodontidae)と毒(toxin)の合成語。
テトロドトキシンは、青酸カリの約1000倍の毒性をもち、中毒を起こすと食後平均2時間前後で、唇から舌先、指などにしびれを感じ、嘔吐や頭痛が起き、重症の場合は神経麻痺による呼吸困難で死に至るほど。
毒のある部位はフグの種類によって異なり、毒を持たないフグも存在するため、運悪くその毒に当たれば命を失うという皮肉から、弾に当たると死ぬという意味合いで「鉄砲」と呼ばれていたフグ。その名残で現在でも、フグ刺しのことを「てっさ」と呼ぶのだそう。
総理大臣の心すら動かした禁断の味
危険な毒を持つフグだが、そのおいしさへの中毒性は古くから変わらなかったようで、隠れてフグの食用を続けようとする武士が多かったために一部の藩では、それに対し厳しい処罰を行っていた。
しかし、隠れてでも食べたくなるほどのものを制限しきれるはずもなく、お上の目が届かない範囲で平然とフグ食文化が発展していったという。
そんな禁断の味、フグが公に食用となる転機が訪れる
時は明治時代、初代内閣総理大臣・伊藤博文公が下関を訪れた際、下関で一番おいしい魚を出そうとしたが、ちょうどその時、海は大しけで魚がほとんど獲れなかった。
女将は悩んだあげく、打ち首覚悟でフグを出したが、それを食べた伊藤博文公は「一身よく百味の相をととのえ」と感嘆。それをきっかけに伊藤博文公が山口県令(知事)にフグ食の推進を働きかけ、1888年に解禁となった。
解禁後も尽きなかったフグ食の課題
こうして解禁されたフグ食だったが、解禁になった後もフグ毒による被害者は後を絶たなかったという。
それはなぜなのか?
じつは、フグは生まれながらに毒を持つ魚ではない。
餌となる微生物の中に毒の要素を含む海洋細菌があり、それらをフグが食べていくうちに体内で極めて強い毒が作られる。
そのため、漁獲の場所や季節により毒の含有量にも個体差があることから、解禁後もフグ毒による被害が続いてしまっていた。それでもなおフグに関する研究や管理、中毒防止活動が続けられ、1983年にいよいよ厚生労働省によって食用できるフグ22種を選定。それぞれの有毒部位を明確にした上で、適切な処理により可食できると定められた。
その後、ふぐ調理師試験が行われるようになり、有資格者だけが調理をできるようになったことで、フグ食の安全性はより一層担保されていく。
海を超えた畑水産の挑戦
このように、フグ食普及の歴史の中心にあった山口県下関のなかでも、業界のトップランナーとの呼び声高い仲卸がある。それが3代にわたってフグ専門の仲卸を営む「株式会社畑水産」だ。その始まりは、創業者である畑栄(はたさかえ)さんが山口県内のとある老舗フグ店の番頭をしていたことがきっかけ。そこで仕入れや加工の技術を学んだことで、フグの魅力に取り憑かれ、その魅力をより一層広めたいと一念発起し、独立。
それからしばらくして、下関のいち仲卸として営業していた畑水産に転機が訪れる。 1984年 、ニューヨークで初めて本格的総檜造りの寿司バー「レストラン日本」を開設したオーナーの倉岡伸欣さんからフグをアメリカへ輸出したいと相談が舞い込んだのだ。栄さんは、その有毒性から海外ではほぼ食用としての需要がなかったフグを輸出するという前代未聞の提案に一度は難色を示したが、今後のフグ食文化の拡大と下関のフグ業界発展を見据えて、挑戦することを決意する。
こうして始まったフグ輸出プロジェクト。1985年にはアメリカ食品医薬品局(FDA)の責任者を招き、毒のある部分を取り除いたフグ刺しを提供したのだが、FDAからは輸出の許可をもらえなかった。
それでもなんとかフグを輸出したいという情熱から、アメリカ食品医薬品局より求められるフグの安全性に関する調書に対して、一つひとつ丁寧に回答。エビデンスに基づく詳細な資料を5年間にわたり提出し続けた。その結果、下関輸出組合の一員である畑水産で処理されたみがきフグに、FDAから輸出の許可が下りたのだ。
いよいよ勝ち取った輸出の権利。1989年3月19日には待望のフグ第一便がニューヨークに到着した。
まずはその素晴らしさを広く知ってもらうことでフグ食の普及に努めようと考えた栄さん。 ニューヨークで最初に披露したフグ刺しは見た目も重視し、鶴をあしらった「鶴盛り」にした。皿の模様や色が透けて見えるほどの薄造りは、弾力のあるフグの身の旨みを最大限に味わってもらいたいという栄さんの心意気。長年フグに携わってきた仲卸としてのプライドを込めた一皿。
その美しさと素晴らしい技術、しっかりとした歯ごたえや甘みを感じるフグのおいしさは海外でも大きな喝采を浴び、現地のグルマンたちにも広く受け入れられた。 このフグに対する栄さんの情熱は代々継承され、現在、三代目である栄次さんに受け継がれている。
先代たちの志ごと受け継ぐ三代目
現在、三代目を務める栄次さんは、大学在学中に体調を崩した父を手伝うべく、家業を継ぐことを決意。横浜の大学を卒業した後すぐに山口に戻り、畑水産に入社した。まずは、ベテランの職人たちの仕事を目で見て真似るところからはじまり、来る日も来る日もフグを捌きつづけた。もちろん、社長の息子だからという贔屓は一切なし。しかし、栄次さんのやる気と気概は次第に周囲に認められ、先輩職人たちも「それならば」と、みっちりと仕事を叩き込んでくれたのだそうだ。
入社して8年が経った頃、先代である父が他界。そこからは、いよいよ自分がこの会社を背負って立つという意識が芽生えたという。
入社した当初は、うまくいかなければ店を畳んでしまえばいいという軽い気持ちでいた栄次さんだったが、自分が会社を引っ張る立場になると同時に、自分の甘えで社員を路頭に迷わすわけにはいかないという考え方が備わった。
身を粉にして働いた。
「自身がこの仕事を通して何を伝えるべきなのか」「先代たちの想いをどう受け継いでいくべきなのか」
たどり着いたのは、下関が誇るこの“ふく食文化”を、まずは地元である下関から浸透させようという答え。どんなに世界中が下関のフグを認めても、結局地元の人が食べてくれないのでは意味がない。そこで、地元でフグ食を再認知してもらうための活動を行っていった。
早速、出身小学校へ、在校生100人分のふぐ刺しを提供。下関で育ちながらも、フグ刺しを食べた事がないと話す子どもたちにそのおいしさを伝えたいと思ったことがそのきっかけだった。今後は、自社の敷地内に一般の人も見学できるフグの生け簀を設けた施設の建設も計画中。生け簀から魚を上げて、その場でフグを捌き、実際に食べてもらうところまでを体験してもらえる施設にしたいと考えている。すべては地域の人たちにフグのことをより身近に感じてもらいたいという想いから。
まずは、下関の子どもたちが「一番好きな食べ物はフグ!」そう言ってもらうのが栄次さんの当面の目標。フグが身近な地元の人たちが心から勧めたいと思うような食材になってこそ、本当に最上級といえるのではないだろうか。そのクオリティを目指すための努力は一切惜しまない。その成果として、日本ひいては世界中からの評価は自然と付いてくると思っている。
三代目が目指すフグ食の未来は、下関の子どもたちの笑顔の先にくっきりと映し出されている。
最高のフグを求めて、市場はもちろん仕入先の生産地にも足を運んで数多のフグを目利きしています。原料には独自の活かし込み技術や確かな腕を持つ職人による身欠き技術による処理を施し、最高の状態に仕立ててお届け。最新鋭の急速冷凍技術によって身は引き締まり、鮮度も抜群です。本当においしいフグを、ぜひ味わってみてください。