長野県上高井郡の人口一万人ほどの小さな町に、一度は訪れるべき寺院がある。栗を使った菓子などで有名な小布施町にある曹洞宗の寺「岩松院(がんしょういん)」だ。江戸時代に一世を風靡した浮世絵師葛飾北斎の傑作が見られるこの寺には、四季を通じて多くの観光客が訪れている。
観光や栗を使った菓子処で人気の小布施町
岩松院のある小布施町は、スキーなどでも有名な白馬村と同じ長野県北部に位置し、県内で最も面積の小さい自治体ながら、歴史や古い文化を色濃く残している。美しい街並みと、そこに軒を連ねる特産品の栗を使った菓子処が人気を博しており、県内有数の観光地としても知られている。この岩松院も、そんな小布施町の観光名所のひとつとして、シーズンには連日、観光バスが押し寄せる。
小林一茶が自身と重ねた句を詠んだ舞台「岩松院」
「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」。これは信濃国(現在の長野県)出身で、松尾芭蕉や与謝蕪村と並んで江戸時代を代表する俳人と言われた小林一茶の句。痩せた小さな蛙が、体格の良い蛙と異性の蛙を巡って争う様子を詠んだもの。一茶が自分自身の置かれた境遇に重ね、自身を鼓舞するために詠んだ句とも言われている。この句の舞台となった池があるのが岩松院だ。
岩松院の歴史
1472年に開基したこの寺院は、火災による二度の焼失など、幾多の変遷を経て現在に至る。豊臣秀吉の腹心で「賤ヶ岳七本槍」の一人としても知られる戦国武将・福島正則の先祖代々の墓があるお寺、菩提寺(ぼだいじ)としても有名だ。
元々、豊臣側の家臣だった福島正則が、徳川側に与(くみ)するようになってしばらく経った1619年、武家諸法度に抵触したとして、当時領主を務めていた広島藩の領地を没収、今で言うところの左遷に近い減転封(げんてんぽう)という刑罰で信越地方に領地を移された。その際、禅の信仰にあつかった福島正則が転封先の菩提寺に定めたと言われている。
観光客の目当ては葛飾北斎の傑作
ここを訪れる観光客の目当ては、大間の天井に描かれている「八方睨み鳳凰図」だ。これは、富嶽三十六景など多くの名作を世に残した浮世絵師・葛飾北斎の作品。北斎が晩年、小布施町に滞在していた際に手掛けたものだ。当時88歳だった北斎は、かつて江戸で知り合い、縁のあった小布施の豪商・高井鴻山(たかい こうざん)全面援助のもと、実娘で浮世絵師の葛飾応為(かつしか おうい)や職人たちの力を借りて、約1年かけてこの画を完成させた。
天井一面に描かれた巨大な鳳凰図は北斎作品のなかでも最大と言われ、今にも動き出しそうな躍動感のある力強いタッチと、完成後は一度も塗り替えを行っていないというのが信じられないほど鮮やかな色彩は見る人を魅了する。しかし全国的には寺院の天井に描かれている聖獣といえば「龍」のイメージが強いのではないだろうか。
では、なぜ岩松院では鳳凰なのか。
岩松寺を守る住職、渡辺正巳さんの考える「八方睨み鳳凰図」
住職の渡辺正巳さんに聞けば、文献などには残っていないから正確なことは言えないが、この作品の制作を北斎に勧めた人物であり、プロジェクト最大の協力者である高井鴻山の当時の思考にヒントがあると言う。高井鴻山は、“世の中に常は無く、変化し続けている”という意味を持つ仏教用語の「無常」を、その当時の世に強く感じていた。それを汲み取った北斎が、「無常」という言葉の対となる「永遠なるもの」を表現する「鳳凰」を描いたのではないかと考えている。あくまで渡辺さんの想像ではあるが、想像通りだったとすれば、北斎と孫ほどの年の差があった高井鴻山との間に築かれた信頼関係の強さと、それが長野県に世紀の超大作を残すこととなったドラマに胸が熱くなる。
住職渡辺正巳さんと岩松院
住職歴は今年で8年目となる渡辺さん。住職になるまでの14年間は、サラリーマンをしていた。大学も経済学部出身。特に仏教を専攻して学んでいたわけではない。ただ、母親の実家がこの岩松院だったため、小さい頃から禅に慣れ親しんでおり、興味は持っていた。
その興味をより深めたのがサラリーマン時代に経験したバックパッカー旅。キリストやイスラム圏を訪れる中で、様々な宗教に触れ、改めて仏教や自身のルーツである禅について考えるきっかけになった。こうして、岩松院の住職となった現在は、仏門に入るまでの社会人経験、時には旅人として見てきた様々な経験を生かし、何百年も続く禅の文化に倣いつつも自分なりの解釈も加えた説法を説いていく。