地域と一体になった酒造りを行い、その魅力を全国に発信する「岡崎酒造」/長野県上田市

日の本一の兵(つわもの)と謳われ、高い人気と知名度を誇る戦国武将・真田幸村とその父、真田昌幸が築城した上田城の城下町として栄えた上田市街地で、今も江戸の景観を色濃く残す柳町。

訪れる人を悠久の時に誘う、歴史情緒溢れるこの通りの一角にある「岡崎酒造」は、1665年創業の酒蔵だ。

店先から醸造所へ抜ける通路沿いには、江戸時代から現存する見上げるほど大きな雛段と鮮やかな雛飾りが展示してあり、この蔵が紡いできた長い歴史を感じることができる。

目次

岡崎酒造が誇る「信州亀齢」の誕生

現在、この蔵の杜氏を務めるのは十二代目の岡崎美都里(みどり)さん。

酒蔵の数が全国で二番目に多いと言われる長野県でも、ひと握り程度しかいない女性杜氏のひとりだ。

三人姉妹の末っ子として蔵元の家に生まれた美都里さんは、人気漫画家・おかざき真里さんを姉に持つ。進路や将来の方向性が定まっていた姉たちを横目に小学生の頃から「誰もやらないのだったら、自分が岡崎酒蔵を継ぐ」という意識を持っていたのだそう。

高校卒業後は酒造りの基礎を学ぶため、東京農業大学へ進学。その後、大手酒販店勤務を経て帰郷。もちろん、経営者としては家業を継ぐ予定ではあったのだが、当時高齢だった先代の杜氏の引退に伴い、急遽蔵に入ることに。

蔵に入って最初の4年間は先代の杜氏の元で技術やノウハウを学び、2002年に岡崎酒造初となる蔵元杜氏になった。

杜氏となった当初は、下降状態だった自蔵の生産量を維持し事業を継続させていくことばかりを考え、手探りの経営を続けていたが、2011年にそれまで外で仕事をしていた夫の謙一さんが蔵の経営に参加。その後は、自社ブランドの一本化や醸造量の調整、地元米の使用促進など、これまでにはなかった新しい視点で酒造りを進めていく。

こうしたアイデアを生み出す核となっているのが謙一さんだ。

謙一さんは元々、東京都庁に勤める公務員。日本酒製造とは全くちがう業界に従事してきた経験が、先鋭的なアイデアを生み出す原動力となっているのかもしれない。

蔵に入った謙一さんは、早速いくつもの酒蔵をまわり、醸造工程やシステムを学び、自社にマッチする日本酒製造のスタイルを確立することから着手。

コンパクトな蔵のサイズ感を活かし、夫婦ふたりだけで管理しきれる製造量を策定し、設備を入れ替え、蔵内の導線を整備し、自分たちの目がしっかりと行き届くことを前提として、品質の向上を図った。

この改革により、ブランドも「信州亀齢(きれい)」に一本化。どのシリーズも甘みと香り、そしてすっきりとしてフレッシュな味わいを感じられる酒になってきた。

2017年には、それまで作っていた地元流通用の二級酒の製造もやめ、自分たちが本当に良いと思う酒のみを醸造し、販路を全国へと拡大させていった。

着々と進めたブランディングが功を奏し、次第に引き合いも増え、それに伴い売上も増加した。

岡崎酒造が見据える地域との未来

こうして自社のブランドを確立した岡崎夫妻が次に目指すのは、地域との連携

岡崎酒造を支え、育ててくれた上田の街を美しく、より魅力的な場所にしていきたいという想いを、少しずつだが具現化させている最中だ。

その取り組みのひとつが酒米のオーナー制度

これは、酒蔵から車で20分ほどの殿城地区と呼ばれる場所に位置する“稲倉の棚田”にある遊休田畑のオーナー希望者を集い、そこで酒米の田植えから収穫までを体験してもらい、実際に収穫した酒米を使って岡崎酒造がこの制度だけの特別限定酒を醸造する。その後、オーナーは絞ったその日に出来上がったばかりの日本酒を直汲みで持ち帰ることができるというものだ。

現在は抽選待ちとなっているほどの人気を博すこの制度、オーナーの大半は関東在住だというから、岡崎酒蔵の、ひいては上田市の知名度を全国へ広めることにも一役買っているだろう。そればかりではなく、利用されず荒廃していた農地に再び命を吹き込み、地域再生や景観保護も担いつつ、田畑を管理するための雇用も生み出す。まさに循環型社会に根ざし、現代のニーズにもマッチした制度。

このように、地域との連携のために実際に動き出していることもあるからこそ、有言実行を期待して岡崎夫妻のもとへ人が集う。

魅力的なまちづくりを進め、より多くのローカルと観光客が岡崎酒造と信州亀齢をハブにして行き交うような地域を創造することで、上田は今よりもっと素敵な街になっていくだろう。

ACCESS

岡崎酒造株式会社
長野県上田市中央4-7-33
TEL 0268-22-0149
URL http://www.ueda.ne.jp/~okazaki/
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