「水の都」大阪平野の歴史
日本最古のダム形式ため池「狭山池」
大阪は言わずと知れた治水の町だ。約6000~7000年前の縄文時代前期の大阪平野は、海水面の上昇(縄文海進)によって現在の寝屋川市まで河内湾と呼ばれた海の底にあり、現在の上町台地は半島のように突き出ていた。それが淀川や大和川のたび重なる氾濫により土砂が堆積し、低地が形成されたことで、5世紀ごろ現在の姿になったと言われている。その大阪平野は多くの河川を有しており、水資源に恵まれていることから「水の都」と表される。
一方、水害を受けやすい地形のため、古くから数々の治水事業が行われてきた。大阪府南東部・南河内地域にあり、南海電鉄高野線の大阪狭山市駅から10分ほど歩いた場所に広がっている狭山池(さやまいけ)、その歴史は古い。この池が造られたのは、1400年前の616年。ここは日本最古のダム形式ため池で、「古事記」や「日本書紀」にもその名が記述されている。
現在その周辺は公園として整備され、市民が散歩する姿などが見られる、とてものどかな場所になっている。
「もともとは、雨が少ないこの地域で水田の水不足を解消し、農業を盛んにするために造られたと言われています。これまで災害復旧工事や貯水量を増やす改修を何度も行っており、現在は水下地域で暮らす人々の生命と財産を水害から守る防災ダムの機能が大きな目的となっています」(狭山池博物館・吉井克信副館長)
狭山池博物館は、1986年から足かけ16年間かけて行われた「平成の大改修」の際に、歴史ある堤や出土した文化財を保存・展示するための施設として2001年に狭山池の隣に開館した。存在感抜群のコンクリート打ちっぱなしの建築は、大阪出身の建築家・安藤忠雄さんの手によるもので、アイコンともいえるもの。「安藤さんらしい建築ですね。でも外から見ただけではここがどんな場所か想像がつきませんでした」(中田)
博物館内に大迫力の地層断面
そう言うように、吉井副館長の案内で建物の中に一歩足を踏み入れると、そこにあったのは、コンクリートの壁を流れ落ちる大きな滝。心地よい水音と、思いもよらないその光景に驚かされる。見学者はこの滝の下にある通路を抜けて館内へ。すると、そこには博物館の最大の展示物である高さ15メートル・幅60メートルある北堤の実物を
移設した「地層断面」。1400年間の歴史を感じさせる壮大なスケールで建物内部をぶち抜くように飾られていた。
「こんな巨大なものをどうやって中に入れたんだとよく尋ねられます。もともとの堤の地層を土のブロック101個に切り分け、3年がかりで保存処理し、この博物館が造られたときに組み立てて再現しました」(吉井副館長)土木の博物館と聞くと、地味なものを想像する人も多いかもしれない。だが1400年間の土木技術を伝えるこの地層断面は一見の価値がある。そこに積み重なっているのは、日本という国と水、そして自然との長い歴史。それがモダンな建築物のなかにあるというところが、またおもしろい。大阪でおいしいものをたらふく食べたら、腹ごなしに足を
伸ばしてみてはいかがだろうか。