日本でも希少な木桶仕込みの天然醸造味噌にこだわる「糀屋本藤醸造舖」

日本でも希少な木桶仕込みの天然醸造味噌にこだわる「糀屋本藤醸造舖」

全国で生産される味噌の5割以上を信州味噌が占めていることをご存知だろうか。
長く厳しい冬を乗り越えるための工夫として、古くから保存食の文化が発展してきた長野県ではあるが、その中でなぜ信州味噌だけが、これほどまでに普及したのか。
その要因のひとつは県を支えた産業の変化。
年間降水量が非常に少ない寡雨(かう)気候で、蚕の餌となる桑の栽培適正が高かった長野県は、蚕の飼育に適しており、明治初期から製糸業が盛んだった。
しかし時代とともに製糸業は衰退。湿度が低く、気温の日較差・年較差が大きい内陸性の気候が大豆や米の栽培に適していたこともあり、次第に、それらを主原料とする味噌製造へと業種を切り替える企業が増加した。

雪国であるが故、味噌を手前で造る文化が根付いており、以前から自社での消費を目的に従業員自ら味噌を仕込んでいた製糸工場も多かったようで、異業種でありながらも、比較的スムーズにシフトしていったのだという。
その後、戦時中の国策として、関東圏へ出荷する味噌の製造を担った長野県。その際、供給需要に対応できたことが功を奏し、販路は飛躍的に拡大した。このようにして、戦後、長野県は味噌の一大産地となり、現在では、国内における味噌の生産量の上位トップ3を、県内に本社を構える大手味噌メーカーが独占するまでとなっている。
坊主頭の彼でお馴染みのあの会社も、「おみそなら」のフレーズで有名なあのメーカーも、信州味噌を主力とし、日本の食卓を背負ってきた。

もちろん味噌蔵の数も、長野県がトップ。北から南まで、大小100以上の味噌蔵が点在するが、中でも長野県の北側に位置する須坂市には小規模ながら、古くから続く個性的な蔵が多く、県内でも有数の味噌の街として知られている。

その中の一軒、「糀屋本藤醸造舖(こうじやほんどうじょうぞうほ)」は屋号のとおり、糀の専門店として明治2年に創業した老舗の味噌蔵だ。
「一炊き、二糀、三仕込み」と言われるほど、味噌造りに大きく影響する糀。四代目店主の本藤浩史さんは、店のルーツである糀の品質に、人一倍強いこだわりを持っている。
本藤さんが味噌造りに使うのは、米の表面全体にハゼ(菌糸)を付着させた「総ハゼ型」と呼ばれる糀。

総ハゼ型の糀は米の表面をあまり削らないので、表面に多く分布するタンパク質を多く残すことができる。それを菌が分解し、アミノ酸が生成。これが味噌の旨味となり、味を決める。削る部分を増やしてしまうと、米のデンプン質から生成される糖の割合が多くなる。味噌造りに使用する糀は、アミノ酸と糖のバランスが重要なのだ。

このバランスは技術や環境によっても大きく変化するので、それを調整し、造る味噌の種類に最適な糀を仕込むことこそ、腕の見せどころといえるだろう。
また、菌の種類にも味噌専用のものがあり、現在、糀屋本藤醸造舖では、6~7種類の菌を厳選し使用。自社の味噌造りに最適な糀を仕込んでいる。糀屋として何代にも渡り培ってきた技術や経験を駆使し、丁寧に育てられたこだわりの糀は、もろ蓋と呼ばれる木箱の中でビシッと固まり、まるでキメの細かい綿菓子のように美しい。
それを蒸煮した大豆と混ぜ合わせて仕込み、代々受け継がれる木桶で熟成する。

この木桶と熟成法こそ、糀屋本藤醸造舖の真骨頂だ。長年使い込まれた木桶の最大の特徴はその桶の気泡の中に“蔵付きの菌”が棲み着いていること。文字通り、蔵の中で育まれた独自の有用菌だが、この存在が発酵の過程で、味噌の旨味や香り、複雑味に個性を与えるという。木桶を使う場合、完成した味噌はすべて手作業で堀り出さなければならないし、メンテナンスだって一苦労。そういった人的リソースの問題で木桶を廃止する味噌蔵も増えている中、本藤さんは木桶を使うことにこだわり続ける。これは、もうひとつのこだわりである天然醸造に大きく影響する。熱を加えず、自然発酵を促し、ゆっくりと熟成させていくこの醸造方法には、熱伝導が小さく、自ら呼吸する木桶が最適。寒暖の差が大きく、味噌造りにとって重要な発酵・熟成にも適した須坂市の環境も相まって、地の利を生かした、塩角の取れた深い甘みのあるまろやかな味噌ができる。全国でも大変希少な木桶仕込みの天然醸造の味噌。簡略化できることはいくらでもあるが、家族経営の小さな味噌屋だからこそ、いかに重労働であろうとも自分の信じる製法にとことんこだわり、良い素材だけを使って本当に良いものを作っていきたいと、本藤さんは話す。

ACCESS

有限会社糀屋本藤醸造舗
長野県須坂市大字野辺1366番地
TEL 026-245-0456
URL https://528.jp/