使う人の声に耳を傾け、丁寧な職人の手仕事を貫く鍛冶職人「河原崎 貴」/長野県伊那市

日本三大桜に数えられる桜の名所、高遠城址を望む長野県伊那市高遠町。この小さな町に、日本中から引く手数多のフライパンを作る職人がいる。生まれ育った東京から高遠町に移り住み、自身の工房を構えた河原崎貴さんだ。

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自分自身と向き合う仕事

河原崎さんが鍛冶職人になろうと考えたきっかけは単純。都内の百貨店に勤務する中で、都会の人混みや、仕事での接客対応に疲れ「自分自身と向き合う仕事がしたい。それならものづくりがいいんじゃないか?」と考えたことだった。その後、さまざまな工芸の工房を見学してまわり、自身が何をやりたいのかを熟考。結果、河原崎さんが興味を持ったのは熱した鉄を叩いて製品を作り出す鍛造だった。自身のやりたい仕事を見つけてからは、持ち前の“なんとかなる精神”で35歳で脱サラ。技術専門学校へ通うために長野県に移住し、卒業後は同県東御市の鍛冶職人に師事した。

作品ではなく、生活道具を

その後、2002年に自身の工房を伊那市高遠町に開設。もちろん、開設後すぐに現在のように順風満帆な状況になったわけではない。到底仕事とは呼べない時期も続いた。しかし「まずは40歳まではなんとしてでも続けてみよう、その結果を以てその先のことを考えればいいじゃないか」と考え、その状況に焦り、うろたえたりしなかったことが現在の成功につながっているのではないかと思う。というのも、河原崎さん自身、前述したように鍛冶職人を志したきっかけも大した理由じゃないと考え、自分の作るものに対して作品という概念はなく、生活道具といったほうがマッチすると思っている。だからこそ「なぜ世の中は自分の作品を理解してくれないんだ。」というようなアーティスト気質の凝り固まったスタンスではなく「世の中のニーズに合っていないのなら、それに合わせた形へアップデートしよう。」といった柔軟な姿勢でものづくりができる。河原崎さんの作品が世に出るきっかけとなった、著書や写真集も出版する有名な陶芸家の山本教行さんとの出逢いにも、この姿勢は大きく影響。開口一番に「依頼されれば鉄で何でも作ります。」と挨拶したところ、それを面白がった山本さんが自身のアトリエへ作品を展示し、人目に触れる機会を与えてくれた。消費者の声に耳を傾け、それをものづくりに活かす、そんなメーカーのような心構えと姿勢は広く共感を呼ぶこととなった。

手間こそ然るべき職人の手仕事

かと言って、河原崎さんの作品は量販店で大量に販売されている工業製品のように量産できるものでもない。金属製品の工場で用いられる冷間鍛造とちがい、ひとつひとつ金属を熱して行う熱間鍛造を用いて作られている河原崎さんの作品。手間がかかるため大量生産には向かないが、複雑な形状まで成形することができ、思い描いた形に仕上げられる。もちろん、自分の作るものに対し「こうでなければいけない」という固定概念はない。しかし、これこそが然るべき職人の手仕事だと考えているから、どんな時でも、ひたむきにそれを貫いてきた。

たまたま作った中華鍋が拓いた可能性

消費者の声に耳を傾ける姿勢と丁寧な職人の手仕事。このふたつの考えが同居していることこそ、河原崎さんの強みだ。最初にヒットした“中華鍋”の誕生は、まさにそれが活きたストーリー。ある日、奥さんが中華鍋がほしいと言い出し、デパートへ探しに行った河原崎さんだったが、散々歩きまわった末、理想のものは見つからなかったという。ならば、いっそのこと作ってしまおうと、奥さんの要望を聞き制作。軽さや熱伝導はもちろん、どんな身長の人でも違和感なく振ることができることなど、細部にまでこだわった手作業ならではのものに仕上げた。それを使った奥さんの反応は良好。それをきっかけに、実際に製品として販売したところ、予想以上の反響があった。要望さえあれば、自分の手で作れるものなら、和釘から階段までなんでも作るという精神は仕事の領域を広げ、さらなるヒット商品を生み出していく可能性が生み出される。

「河原崎貴のフライパン」という価値

そうして誕生したのが、現在入手困難となっているフライパン。中華鍋と同様、消費者の声から生み出されたものだが、都内の有名ライフスタイルショップでの取引が始まって以来、手作業で行う鍛造ならではの機能性や温もりのある質感などが評判を呼び、またたく間に人気を博した。さらに、キャンプ系人気ユーチューバーが配信する動画の中で使用したことをきっかけに、これまで購買層ではなかった若者や男性などのユーザーも獲得。より一層需要を拡大し、現在ではオーダーから手元に届くまでに1年以上待つという状態になっている。

たどり着いた到着点と見据える先

こうして、日本中から引く手数多となった現在でも、やることは工房を開設した当時とまったく変わらないという。いつもと同じように鉄板を熱し、いつもと同じようにそれを木槌で叩いて成形していく。ただ昔と少しだけ変わったことといえば、目が出来てきたこと。鍛造作業中は寸法が測れないから、職人を始めた頃は同じものを同じ工程で作っていても、すべて同じサイズにすることが難しかった。  

しかし、数をこなすうちに何も考えなくても形が揃うようになってきた。そして作れば作ったぶんだけ売れる現在の状態は、自分にとって到達点なのだそう。自分ができる手一杯の量を生産しているから、これ以上は作れない。だから、これ以上収入を増やすことは不可能だし、そこまで多くのことは望まない。自分が好きではじめた鍛冶仕事を10年後も同じように続けていたい。ただそれだけを願い、河原崎さんは今日も鉄を打ち続けている。  

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河原崎 貴
長野県伊那市
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