静岡県と山梨県の県境、南アルプスの山林に佇む、日本で最も標高の高い場所にある蒸溜施設「井川蒸溜所」。運営するのは、この地に広大な社有林を持つ特種東海製紙グループの「十山(じゅうざん)株式会社」。なぜ紙造りのプロフェッショナルが、ウイスキーという未知の領域に挑んだのか。そこには、南アルプスの豊かな生態系を次世代へと繋ぐための、壮大な「森の利活用」の物語があった。
電波も届かない山奥で、静かに回る蒸留機

静岡駅から車で4〜5時間。一般車両の進入が制限されたゲートを抜け、さらに奥へと進んだ先に井川蒸溜所はある。静岡県側から向かう南アルプスの入り口に位置する井川地区は、携帯の電波すら届かない深い山の中だ。
インフラが乏しく、生活の利便性が皆無のこの場所では、製造メンバーが山に籠もり、蒸溜機と向き合う。下山できるのは2週間に一度きり。深い森の中で原酒の産声を見守るその生活は、まさに修行僧のようでもある。
ちなみに現在、日本国内には稼働中・準備中を含め、約150カ所のウイスキー蒸溜所があるが、十山が異業種から参入した2020年当時は40〜50カ所程度だったというから、この5年で約3倍に増えた計算になる。
その中でも静岡県は蒸溜所の数が日本で5番目に多く、比較的ウイスキー造りが盛んな地域。
静岡市内には「ガイアフロー静岡蒸溜所」、県東部には、大手飲料メーカーであるキリングループが所有する「キリンディスティラリー」をはじめ、「Distillery Water Dragon」「富士かぐや蒸溜所」など、特色ある蒸溜所が点在するが、井川蒸溜所はその稀有な立地や成り立ち、経営ビジョンから、県内でもひときわ個性を放つ存在となっている。
2万4,000ヘクタールの森が、すべての始まりだった

そんな井川蒸溜所を運営する十山株式会社(以下・十山)の親会社である特種東海製紙株式会社(以下・特種東海製紙)は、この南アルプス一帯に約2万4,000ヘクタールの社有林を所有。
これは山手線の内側の面積の約4倍に相当し、地続きの単一私有林としては国内最大級の広さを誇り、日本の固有種や希少種が息づく極めて豊かで深い生態系を有する。そのため同社では、この貴重な自然環境を後世に残すため、守っていかなければいけないと考えていた。
しかしながら、この広大な森や生態を維持・保全し続けるには莫大なコストがかかる。かつては伐採した木を川に流して下流でキャッチし、建築資材や紙のチップにするなど資源として利活用していたが、海外産の安価な木材に押され、そのビジネスモデルも半世紀以上にわたって停滞。
「ただ保護するだけでは、持続可能な管理はできない。山の価値を正しく作り出し、保全のための資金を生む事業が必要だ」
そんな長年の課題に対するひとつの答えとして誕生したのが、十山であり、ウイスキー事業だった。
山の恵みが、完璧にそろっていた

山を活用するビジネスを検討した際、最初に着目したのは「水」だった。南アルプスは、人々の暮らしを支える水源地であり、工業用水や生活排水の影響を一切受けない極めてピュアな軟水が湧き出る。この水をそのまま販売する案もあったが、それだけでは付加価値に限界があることは否めなかった。
そこで考え、辿り着いたのが、社有林そのものを活かしたウイスキー造り。
社有林のある井川地区は、1,200メートルという標高の高さと、山林の恩恵を受けた湿潤な気候により、一年を通じて冷涼かつ湿度が高く、樽熟成中の蒸散率が低いため、時間をかけてゆっくりと熟成させた長熟の酒を育むことができる。
この気候や環境はウイスキーの本場・スコットランドによく似ているのだそう。
加えて、こんこんと湧き出る源流水や、ウイスキー樽に多く使用されるミズナラ(オーク)といった素材の優位性もあり、良質なウイスキーが造れる条件がそろっていた。
成長の過程を愛でる。「デッサン」という名の物語

こうしてはじまったウイスキー造り。
好きが講じて、さまざまな銘柄を飲み比べてきた蒸溜責任者兼所長の瀬戸さんが目指したのは、派手なインパクトではなく、クリアで飲み疲れしない食中酒のようなウイスキー。
スッキリとした味わいの奥に、上品に素材の味や香りを感じられる、さながら南アルプスの原生林のような“奥ゆかしさ”を表現したいと考えた。
そのためにこだわったのがミルと呼ばれる、原料のモルト(大麦)を粉砕する工程。
クリアな麦汁をとることで、雑味がなくなり井川蒸溜所が求める甘く透明感のある酒質につながるため、この工程では「ハスク(殻)」「グリッツ(粗い粒)」「フラワー(細かい粉)」のバランスに注意し、渋みや重たい口当たりの原因となるフラワーが多くならないように都度、細やかな調整を行っている。
味のコンセプトや製法へのこだわりが明確になり、蒸溜開始から3年が経過した現在、井川蒸溜所からリリースされているのは、完成されたレギュラー品ではない。彼らは、ブランドが誕生して間もない“今しかできない”ラインナップに、独自の哲学を込めている。
最初にリリースされたのは、3年未満の原酒を集めた「ラボ(Lab)シリーズ」。自分たちがどのような「絵の具(原酒)」を持っているかを確認するための実験の記録だ。これに続き、現在展開しているのが「デッサン(Dessin)シリーズ」。

ラベルには、南アルプスに生息する雷鳥(Fauna)や高山植物(Flora)が線画で描かれている。あえて色をつけないのは、熟成の途上にあり、まだ「未完成」であることを示すため。このデッサンに色がつき、南アルプスの全景がカラーで描かれた時、井川蒸溜所の求める「完成画」としてのウイスキーは誕生する。
「今この瞬間の、井川の自然を味わってほしい。未完成な時間の重なりを楽しめるのも、ウイスキーの醍醐味ですから」と、瀬戸所長は語る。
世界を驚かせた、2025年の快挙。井川が証明した「質」の力

近年、その「未完成」なはずのウイスキーが国際的なコンペティションで次々と高い評価を獲得し、世界に衝撃を与えている。
アメリカで開催された「Bartender Spirits Awards 2025」では、デッサンシリーズの「Flora 2024」が「シングルモルト・ウイスキー・オブ・ザ・イヤー」に、「Fauna 2025」が「ジャパニーズ・ウイスキー・オブ・ザ・イヤー」にそれぞれ輝いた。
また、「Flora 2024」は、スピリッツにおける世界三大品評会のひとつと評される「San Francisco World Spirits Competition 2025」や、ウイスキーの本場であるイギリスで開催される「International Wine & Spirit Competition 2025」でもゴールドメダルを獲得し、その品質の高さを証明した。
さらに、品質だけでなく、プロジェクトとしての取り組みも高く評価されており、2025年9月には東京ビッグサイトで開催された「第8回エコプロアワード」にて最高位のひとつである「財務大臣賞」を受賞。12月には環境省主催の「グッドライフアワード」でサステナブルデザイン賞を受賞するなど、ウイスキー造りを通じた森林保全活動が、持続可能な社会のロールモデルとして注目を集めている。
「紙造り」のプライドを「ウイスキー」へ。異色の職人集団
井川蒸溜所は、造り手たちの経歴も異色だ。現場を統括する瀬戸所長をはじめ、スタッフの多くは元々、特種東海製紙で「紙」を造っていた技術者たちである。社内公募で集まったメンバーは、自動車整備士やアルコール製造の経験者など多岐にわたるが、ウイスキー造りに関しては全員がゼロからのスタートだった。
ウイスキー造りの経験といえば、プロジェクトが始まった当時に瀬戸所長が長野県の「マルス信州蒸溜所」で約1年間の修業を積んだ程度。
とはいえ、紙の製造で培われた緻密な工程管理や不具合を見逃さない鋭い観察眼、機械メンテナンスのスキルは、繊細な蒸留プロセスの安定に寄与している。
静岡の宮大工と挑む「国産ミズナラ樽」の再興

ウイスキーに特色が出せるようになってきた同社。
次のステップとして考えたのが、社有林に自生するミズナラの間伐材や倒木を使ったウイスキー樽の製造だった。
樽はウイスキーの味わいを決める重要な要素。通常、多くの蒸留所は海外からシェリー樽やバーボン樽の中古を輸入して使用する。だが同社は考えた。「山に木があるのなら、自分たちで樽を造れないか。自社製の、しかも社有林で育った木を使った樽でウイスキーを熟成させることは、大きなアドバンテージとなるはずだ」と。
そこで声をかけたのが、静岡市内の「宮大工」である杉山さん親子だった。
「中古の樽をバラしてみれば、構造もわかるし造れるだろう」
そんな力強い言葉から始まった樽造りプロジェクトは、一筋縄ではいかなかった。宮大工としての誇りを持つ彼らにとっても、液体を漏らさない「樽」という構造は未知の領域だったからだ。
杉山さん親子が音頭を取り、地元の板金屋に「タガ(樽を締める鉄輪)」を依頼し、地元の製材所が丸太を挽く。まさに市内の職人ネットワークを結集した「オール静岡」の樽造りが動き出した。
それから約3年の歳月を掛け、ようやく完成した国産ミズナラの樽は、ウイスキーに、蜂蜜のような甘みや、香木(芳香を放つ木材)の最高峰と言われる伽羅のような独特の香りを与えた。それは、同社が目指す奥ゆかしい「和」のニュアンスそのものだった。
まだ全体の数パーセントではあるが、自社材の樽で熟成された原酒は、専門家からも高い評価を得ている。
百年先の森のために。一献に込められたフィロソフィー

井川蒸溜所のウイスキーは相場と比較しても、決して安価ではない。それには明確な理由がある。
ひとつは、人里離れた厳しい環境での製造コスト。そしてもうひとつは、この売上の一部が「南アルプスの保全」に直接充てられるという点だ。
このウイスキーを手に取ることは、南アルプスの自然を守り、100年先の森を育む活動に投資することと同義。
同社がつくっているのは南アルプスの情景そのものであり、百年先の森の姿だ。
その挑戦は始まったばかり。今はまだ「デッサン」の段階だが、南アルプスの豊かな水とミズナラ、そして厳しい冬が、原酒を琥珀色へと変えていく。
まだ完成版を世に出す明確な時期は決まっていない。仕込んでいる原酒も樽ごとに個性があり、熟成のピークも異なる上に、未完成とは言いながら現在リリースしている「Flora」や「Fauna」も胸を張っておいしいと言える。だからこそ、長熟による香味も含めて、今あるウイスキーを凌駕する味になった時、この琥珀色の一滴は、いよいよ世界中のグラスを満たし、日本の豊かな森を守る大きな循環を生み出すだろう。守るべき森が、100年後も変わらず美しくあり続けるために、今日も山深くで、蒸留機は静かに回り続けている。
※本ツアーは、積雪のある冬季は開催しておりません。2026年4月以降のツアー開催に向けて、現在準備しておりますので、下記サイトより最新情報をご確認ください。
https://travel.daitetsu-adv.co.jp/



