神奈川県小田原市の曽我地区は、梅の名産地として知られ、特に果肉が厚く柔らかい「十郎梅」は梅干し用品種の最上級品とされる。その梅を完熟まで待って収穫し、塩だけで漬け込み、夜露に当てながら干し上げる伝統の技を守り続けているのが斉藤徳雄さん夫妻だ。受賞歴も重ねる確かな技と誠実な姿勢が、多くのファンを惹きつけている。
小田原に根づいた梅の歴史

神奈川県小田原市は、古くから梅の名産地として知られている。戦国時代には北条早雲が梅干しを兵糧に用い、長期保存ができる食料として兵士たちを支えた。梅の薬効や腐敗防止作用にも注目され、戦場では欠かせない存在だったのである。やがて江戸時代になると、梅干しは薬用や食用として庶民に広まり、小田原宿を行き交う旅人の土産としても定着した。弁当の防腐や健康維持にも役立つ梅干しは、生活の中に欠かせない保存食として根強い人気を博していった。
曽我梅林と梅祭りのにぎわい
こうした歴史を背景に、小田原の曽我地区には広大な梅林が形成された。曽我別所・原・中河原の三つの梅林をあわせて「曽我梅林(そがばいりん)」と呼び、今では約3万5千本もの白梅が植えられている。梅には、観賞用で中国原産の落葉高木(らくようこうぼく)「花梅(はなうめ)」と、食用や薬用にする「実梅(みうめ)」があるが、同地区で生育されているものの多くが食用の梅を生産するための木であり、果実を加工して梅干しや梅酒として地域に流通させる役割を担っている。
とはいえ、曽我梅林では収穫だけでなく、その花の美しさや香りを観光資源にしていきたいと、「梅まつり」も開催。開花期の2月から3月にかけて一面に咲く梅は訪れる人々を魅了し、地元の特産品販売や観光と結びつき、地域のにぎわいを生み出している。梅の生産と観光が一体となったこの景色は、まさに小田原の梅文化を象徴する光景といえる。
文化庁「100年フード」にも認定された小田原生まれの十郎梅

小田原では、「白加賀(しろかが)」や「南高(なんこう)」「梅郷(ばいごう)」などの品種が栽培されているが、中でも特別なのが「十郎梅(じゅうろううめ)」である。全国的な知名度はまだ高くないが、実は梅干し用としては最高峰とされる品種だ。果肉が厚くやわらかで、種が小さいため食べやすく、漬けるとまろやかな酸味と深い旨みを生む。そのとろけるような食感に一度出会えば、思わず「こんな梅があったのか」と驚く人も多い。
この梅が生まれたのは1950年代。小田原市で選抜された足柄上郡の在来実生で、室町時代の軍記物語・曽我物語に登場する曽我十郎の名にちなんで「十郎梅」と呼ばれるようになった。小田原の土地と風土に適したこの梅は、まさに地域が誇るブランドなのである。さらに、この「曽我の梅干し」の歴史と魅力を次世代に継承し、広く普及させるため、文化庁が実施する「100年フード」に応募したところ、「伝統の100年フード部門~江戸時代から続く郷土の料理~」に認定されている。
生産者泣かせの一面
一方で、この十郎梅は“生産者泣かせ”と呼ばれるほど扱いが難しい品種でもある。果皮が非常に薄く、枝に触れただけでも傷がつきやすい。収穫するときは一粒ずつ手でもぎ取り、収穫かごにはクッションを敷くほどの気遣いが欠かせない。さらに、天日干しでの裏返しは神経戦。完熟果ゆえに皮が破れやすく、最後まで気が抜けない。
加えて、結実が安定せず収穫量に大きな差が出る年もあるため、生産者は栽培から加工まで常に神経をとがらせている。それでも十郎梅にこだわり続けるのは、この梅でしか得られない独特の味わいがあるからだ。実際に十郎梅で梅干しを漬けた人は、その柔らかさと奥深い風味に魅了され、翌年からは「十郎梅しか使えない」と言うようになるという。
県知事賞を重ねた確かな実力

そんな、曽我梅林の別所地区で梅干しづくりに励む斉藤徳雄さん。夫婦で力を合わせ、十郎梅を使った昔ながらの梅干しを守り続けてきた。その確かな仕事ぶりは地元でも広く知られ、長年にわたり高い評価を受けている。
斉藤さんの梅干しは、これまで小田原梅干品評会にて、2023年、2024年連続入賞、過去には農林水産大臣賞や神奈川県知事賞も受賞しており、小田原梅干品評会の上位入賞の常連として、その技術と実直な姿勢は折り紙付きだ。
品評会で評価されるポイント
小田原梅干品評会では、大きさや粒のそろい具合、皮の状態、色合いといった外観が厳しく見られる。そして試食では、柔らかさや酸味、塩加減のバランスが問われる。斉藤さんの梅干しは果肉がとろけるように柔らかく、塩の角が取れたまろやかな味わいが特徴で、審査員だけでなく消費者からも高く支持されている。
技を磨き続ける姿勢
品評会は結果だけでなく、日々の努力の積み重ねを映し出す舞台でもある。柔らかさと粒ぞろいをいかに両立させるか、酸味と塩味の調和をどう整えるかといった、細部へのこだわりが求められる。斉藤さんは「工夫は出し尽くした。あとは手を抜かずに続けるだけ」と語る。派手さはなくとも、積み上げてきた経験と誠実な作業こそが評価につながっている。
10年で築いた梅農家としての基盤
斉藤徳雄さんの家は、梅・みかん・キウイを栽培する農家だった。自宅の隣には大きなしょうゆ蔵があり、子どものころから食や発酵の文化が身近にあったそうだ。
社会人になってからは料理人としての道を歩んだ。しかし父親が早くに他界し、40代後半で家業を継ぐ決断を下す。農業に本格的に取り組み始めたのはこのときで、実は本格的に農業に向き合ってからの年月は10年ほど。それでも、梅を中心に神奈川県産の米「はるみ」や、甘味と酸味のバランスに優れたキウイ「ヘイワード」も栽培し、季節ごとに畑に向き合う暮らしへと切り替わっていった。
農業を支える家族とこだわり
転身後は母親と奥さんと共に畑を守り、作業を分担しながら歩みを続けてきた。平日は料理人として働きながら農作業を手伝う時期もあったが、専業になってからは天気予報を見ながら作業を進める日々となった。特に、害虫や病気予防のため、日当たりや風通しをよくする剪定という作業は独自のこだわりを持ち、枝を整えた結果、良い実が生ったときには大きな手応えを感じるという。まだ農家としての歴史は浅いが、食に携わってきた経験と家族の支えが、斉藤さんの農業を強く支えている。
完熟の瞬間を逃さず、塩と太陽で引き出す十郎梅の旨み

斉藤さんの梅干しづくりは、収穫からすでに独自のこだわりがある。木から自然に落ちる寸前まで熟した梅だけを丁寧に拾い集めるのだ。黄色からオレンジに色づき、香りが立ちはじめた実は果肉がやわらかく、とろけるような梅干しに仕上がる。その見極めは簡単ではなく、毎日の畑の観察が欠かせない。雨や風の影響を受けやすいため、わずかなタイミングのずれが品質に直結するが、そこに手を抜かないのが斉藤さんの流儀だ。
塩分18%で仕上げる昔ながらの味わいと土用干し
収穫した梅は、選りすぐったうえで塩をまぶし、重石をかけて漬け込む。塩分は18%を基本にしており、保存性と味わいのバランスを取る昔ながらの方法を貫いている。塩だけで仕上げる「白梅干し」は、ハチミツなどを加えたまろやかな味わいの梅干しと違い余計な調味料を加えない分、ごまかしのきかない真剣勝負。果肉の柔らかさや酸味のまろやかさを引き出すためには、経験に裏打ちされた判断が必要になる。
梅雨が明けると、次は天日干しの工程が待っている。斉藤さんは梅を三日三晩、夜露に当てながら干す「土用干し」を大切にしている。日中の強い日差しと夜の湿り気を繰り返すことで、果皮がやわらかくなり、果肉の旨みが凝縮されるのだ。干す作業では梅を一粒ずつ裏返さなければならず、皮が破れやすい十郎梅にとっては神経を使う作業が続く。それでも「このひと手間が味を決める」と斉藤さんは語り、昔ながらの方法を守り続けている。
仕上がりの特徴
こうして仕上がった梅干しは、口の中でほどけるようなやわらかさ、粒が大きく揃っているのが特徴だ。酸味はまろやかで旨みがしっかりと感じられ、塩の角が取れた深い味わいに仕上がる。食べた人の多くが「もう十郎梅以外では物足りない」と口をそろえるのも、その確かな品質があってこそ。
2トンからわずか数キロだけ認定される極上ブランド『雲上』

斉藤さんの梅干しは、小田原市が公認する地域ブランド「雲上」にも選ばれている。斉藤さんの家の場合、2トン漬けてもわずか数キロしか認定されないほど厳しい基準が設けられており、選ばれるのはごく一部の梅干しだけだ。条件としては、粒の大きさが4L(直径42mm)以上であること、形が整い皮がきれいに張っていること、色合いの美しさ、そして味わいの確かさまで徹底して確認される。さらに塩分も基準の一つで、斉藤さんは「あと塩分ですね。18%で漬けていて、20%以下で仕上がっているかどうか。20%未満でいかないと」と語り、基準を守り抜いている。雲上に認定された梅干しは個包装で販売され、一粒あたり300円ほどで取り扱われる高級品だ。こうして選ばれた梅干しは、市内でも限られた農家しか手にできない誇りの証でもある。
地域とともに広がる誇り
『雲上』に認定されると、市の公式ブランドとして百貨店などで販売され、消費者の目に触れる機会が増える。これは単なる販売促進ではなく、小田原の農産物としての信頼を高め、地域全体の誇りにもつながるものだ。斉藤さん自身も「自分の梅干しが地域を代表している」との思いを強く持ち、次世代へつなげる責任を感じている。
一粒に込めた思いが未来へ続く

斉藤さんの農業は、家族の協力とともに歩んできた。これまで積み重ねてきた経験や工夫が、十郎梅の魅力を引き出す確かな技につながっている。塩だけで漬ける昔ながらの白梅干しは、果肉の柔らかさと深い旨みをそのままに伝える仕上がりで、炊き立ての温かいご飯に添えれば思わず箸が止まらない。「派手なことはできないけれど、真面目に続けていくことが大事」と語り、その一粒一粒に誠実さを込める斉藤さん。静かな情熱がにじむ姿勢こそ、これからも小田原の梅文化を支えていく力になっていく。



