東京で会社勤めをしていた吉田全作さんは1984年、チーズを作るため岡山県の吉備高原で酪農を始めた。健康な牛を育て、その乳から作るカマンベールやリコッタ、カチョカバロなどのチーズは有名レストランのシェフから評価を受け、全国へ広まっていった。
「牛飼い」としてチーズ作りを始める

吉田牧場は岡山空港に近い岡山県中央部の吉備高原にあり、岡山市内からはクルマで約1時間の距離だ。標高約370メートルの起伏に富んだ土地にある牧場には約60頭のブラウンスイス牛が放牧され敷地内にチーズ工房を設けている。自分たちの家畜の乳だけを使ってチーズを作る「フェルミエチーズ」の日本での先駆的存在だ。
1984年、この地で『吉田牧場』をスタートさせた吉田全作さんは1955年、岡山市で生まれた。北海道大学農学部を卒業し東京で約5年間会社勤めをした後、ものづくりがしたいという思いから好きだったチーズ作りに取りかかった。チーズ作りは牛を飼うことだと心得ていた吉田さんは最初の半年は酪農の研修をし、現在の場所で牧場を開いて3年経った頃にチーズ作りを始めた。
ブラウンスイス牛の乳からチーズを製造

「牛飼いについてまったくの素人だった両親がふたりだけで365日休みなく牛の世話をして、安定してきたと思えたのが5年経った頃だそうです。考えようによってはたった5年で酪農のノウハウを掴んで、そこからチーズ作りを始められたことはすごいと思います」。こう語るのは吉田全作さんの息子、吉田原野さんだ。現在の吉田牧場の担い手である。
ヨーロッパの農家はそれぞれの地域の気候風土にあった家畜を飼い、その乳から作るチーズが地域ごとの名産となっている。例えばゴーダチーズは、オランダの平地にぴったりの体が大きくずんぐりとしたホルスタイン牛の乳から作られ、ゴーダという町を代表する加工品となった。世界三大ブルーチーズのひとつ「ロックフォール」は南フランスの石灰岩地帯にあるロックフォール・スール・スールゾン村の冷涼な山地で飼育されるヒツジの乳を村内の巨大な洞窟で熟成して作られている。また北イタリアの山岳部では、崖を登り下りできるヤギを飼育し、その乳から作られる「カプリーノ」が有名。
吉備高原に合うとして吉田さんが選んだのはスイス原産のブラウンスイス牛だ。山地を上り下りするのに適した牛で、チーズ作りに必要な固形分であるカゼインなどタンパク質が製造過程を経ても残る「歩留まり(ぶどまり)」がいい乳質を持つ。吉田牧場で毎日搾乳するのは現在約30頭で、1日に550〜600リットルを機械で搾乳する。ホルスタイン牛に比べると乳量としてはかなり少ないが、家族で無理をせずに世話ができる頭数におさめている。
乳質がチーズに与える影響は9割

チーズの出来を左右するのは約9割が生乳の質で、人間が補うことができるのは1割程度だという。「平均値には持っていけるかもしれませんが、生乳がよくなければ決して満足できるものには持っていけないんです」と原野さん。
干し草など牛が食べるものと飼育環境に最大限の注意を払って健康管理を行う。放牧中の牛は外の草を食べるが、ほかに「チモシー」という競走馬に与えるような最上級の干し草をじゅうぶんに与えられる。これはパリッと乾燥した干し草で香りもよいうえに含有タンパク量や繊維の質がよく、体内で分解しやすいため牛のお腹にストレスをかけない。水は1頭につき1日100リットル以上与えている。こうした環境で外を歩き回る牛は足腰が鍛えられるので、お産のときも人の手を借りることなく自然分娩で生んでくれるという。チーズ作りで何より重要なことは牛を健康に飼育することだと考える原野さんは自分たちのことを「牛飼い」と呼ぶ。
原野さんは牛の世話から1日も離れない両親を見て育った。それでも吉田牧場の仕事を継ごうと思ったのは「両親が毎日楽しそうだったんです。良いお客さんに恵まれていつも賑やかだったし、まったくつらそうじゃなかった。実際に仕事を一緒にやるようになってから牛飼いの大変さがわかりました」。
イタリア大使館のピンナ氏からチーズ作りを教わる

父の吉田全作さんがチーズ作りを始めた当初、吉田牧場のように酪農とチーズ製造を一緒に行う小規模農場は北海道に1軒、長野に1軒程度だった。一般的にチーズといえば大手乳業メーカーのプロセスチーズで、そんな時代に全作さんはカマンベール、ラクレット、フレッシュの3種類のチーズを作り始めた。
あるとき吉田牧場のカマンベールチーズが、イタリア大使館の参事官だったサルバトーレ・ピンナ氏によって見出される。東京のパン店で購入したチーズに感動し「こんなチーズを作る日本人がいるのか。彼にもっとチーズを作ってもらいたい」と熱い思いを抱く。ピンナ氏は過去にイタリア外務・国際協力省に勤務し、農業の開発協力など対外援助に携わっていた。チーズ好きで世界中どの赴任先でもおいしいチーズを作れる人物を探すほどチーズへのこだわりは強い。そこでさっそく吉田牧場に連絡を取った。
1990年、ピンナ氏は吉田牧場を訪れ、全作さんに数日間つきっきりでカチョカバロ、モッツァレラ、リコッタチーズの作り方を教えた。全作さんは教わったとおりに励み、出来上がったチーズを大使館に送るとピンナ氏から「合格」という返事が返ってきた。その後、東京・赤坂のイタリア料理店『グラナータ』の初代料理長で現在は『ラ・ベットラ・ダ・オチアイ』のオーナーシェフを務める落合務氏が吉田牧場のモッツァレラチーズに惚れ込み、取り扱いを始めたことで、ほかのレストランにも広まっていった。チーズ作りを始めた初期段階でレストランのシェフから支持されたことは大きかった。その後レストランで吉田牧場のチーズを知った人が直接注文してくれるようになった。
この土地だからできる味わいを表現する

現在、吉田牧場が製造するチーズはカチョカバロ、ラクレット、パルミジャーノタイプの「コダカ」、コンテタイプの「マジヤクリ」、カマンベール、モッツァレラ、イタリアンリコッタなど約10種類。チーズはナチュラルチーズとプロセスチーズに分けられる。ナチュラルチーズを加熱して色々と添加して作るプロセスチーズは乳酸菌が死滅し保存中に熟成が進むことはないため、最初に味を決めて作り上げる。吉田牧場のチーズは全てナチュラルチーズで、乳酸菌などの微生物の働きで生乳を固めて発酵・熟成させるため時間の経過とともに味が変わっていく。「食べる方にとってもその変化は楽しいんじゃないかと思います」と原野さん。
家畜がいて鍋と火と塩があればチーズを作ることができる。そのなかでチーズの味を決める大きな要素が乳酸菌だ。吉田牧場では自前で乳酸菌を起こして受け継ぎながらずっと使っている。乳酸菌は自然界に存在しているため、牛乳を20度程度の気温の外に置いておくと菌がやって来て繁殖してヨーグルト状になる。こうして作り受け継いできた乳酸菌にうまく働いてもらうためチーズを仕込む際のホエイが抜けていく速度や温度、水分量を調整する。これは歯ごたえにもつながる。
乳質は毎日変わり、チーズは保存中の気温や湿度、環境によって発酵、熟成が変わる。「自分のコントロールが効かない部分、効かせたくても効かせられない部分に新しい発見があって面白いです」と原野さんは語る。
吉田牧場のチーズ熟成庫は斜面を切り取った半地下のような構造物だ。パルミジャーノタイプと「マジャクリ」というハード系の2種類をここで熟成させる。若いチーズは白く、塩水につけたタオルを絞って自然に生えるカビを拭き取り、裏返す作業を毎日繰り返すうちに表面に硬い皮ができる。こうなればカビは内部に入ることはなく、内部で熟成が進む。チロシンというアミノ酸が増加する過程で、グルタミン酸などのうまみ成分も増える。このようにして2〜3年間熟成庫に寝かせたのちに出荷する。
楽しみながらチャレンジを積み重ねる

吉田牧場の設立から40周年を迎えた年、チーズの熟成を抑えながら保存する貯蔵室と販売所と多目的スペースを兼ねた建物が完成した。自然素材を多用し、経年美を尊重する建築家・中村好文氏の設計で、印象的なのは吉田牧場のブラウンスイス牛のフンを使用し、作られた外壁だ。藁のブロックを積み重ね、土などで固めるストローベイルハウスのような造りだ。多目的スペースの楽しさの「ファン」と「フン」と掛けて「FUN」と名付けている。
牧場を運営するうえで避けて通れない、搾乳できない牛の命にも向き合っている。オスの仔牛のほとんどは山口県美祢市の『梶岡牧場』に託す。牛の飼料の製造から繁殖、肥育、育てた牛を食として提供するレストラン経営までを一気通貫のスタイルで行う牧場だ。また仔牛を産めなくなった母牛は滋賀県草津市の精肉店『サカエヤ』に任せる。全国10箇所の牧場の生産者とつながり、どのような飼料でどのように飼育されたか把握したうえで最適な方法で処理することができ、全国の名だたるレストランの料理人が研修に訪れる。吉田さんが絶大な信頼を置く2社だ。牛の皮は『サカエヤ』から神戸に拠点を置くオーダーメイドのレザーバッグのブランド『cornelian taurus by daisuke iwanaga』に納品されている。「命の最後を信頼できる人に任せられるから、心置きなく育てることができる」。
吉田原野さんはこう語る。「これ以上たくさん作って売ることは考えていないんです。重心を置いているのは、自分たち家族が楽しみながら続けられるかどうか。酪農とチーズ作りは毎日やることが一緒だから、それをちゃんと続けられるかどうかが今後をもっと良くできるか、ダメになるかの分かれ道だと思うんです。続けていくなかで見つかったチャレンジは小さなことでも積み重ねて、それでようやく行くべき道筋が見えてくるということだと思います」
チーズ作りを息子に引き継いだ父・吉田全作さんは現在、畑で麦を栽培して趣味としてパン作りに挑戦している。家族が毎日の積み重ねを楽しみ、発見を繰り返しながら理想を追うのが吉田牧場のスタイルだ。