力強く表情豊かな黒色と、シンプルで美しいフォルムを特徴とする珠洲焼(すずやき)。石川県珠洲市(すずし)を産地とするこのやきものは、約500年前に途絶え、「幻の古陶(ことう)」とよばれた。珠洲焼作家・篠原敬(しのはらたかし)さんは、昭和になって再びよみがえったやきものに人生をかけ、今日も土と向き合う。
平安時代を起源とする幻の古陶

中世を代表するやきものでありながら、室町時代に忽然(こつぜん)と姿を消した珠洲焼。能登半島の最先端に位置する石川県珠洲(すず)市は、かつてやきものの一大産地だった。
やきもの産地が成立する条件はいくつかある。やきものに適した土がとれること、輸送手段があること、燃料となるアカマツの薪が豊富に確保できること、そして生産を支援するスポンサーがいること。珠洲は、それらの条件を満たしていた。
現代の珠洲市は半島の行き止まりにある“さいはて”の街だが、かつては海路を通じた物流・交易の拠点だった。また珠洲焼が成立した12世紀なかごろは、貴族が各地に荘園を広げた時代。珠洲市周辺には京都の名門貴族・九条家(くじょうけ)の荘園がおかれ、荘園経営の手段として珠洲焼が生産されたと考えられている。荘園領主の後ろ盾を得た珠洲焼は、日本海側に大きく商圏を広げた。
珠洲焼が途絶えたのは15世紀末で、ちょうど荘園の衰退と時期が重なる。幻の古陶となったのはスポンサーを失ったため、というのが有力な説となっている。
昭和中期、地域をあげて珠洲焼を再興

珠洲市内では昔から、街のあちこちに黒いやきものの破片がころがっていたという。釉薬をかけずに硬く焼き締めた肌合いから、これらは古墳時代に大陸から伝わった須恵器(すえき)と思われていた。しかし昭和中期の調査で窯跡(かまあと)が見つかり、中世にやきものの一大産地だったことが分かった。
中世から続くやきもの産地として越前、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前の「日本六古窯(にほんろっこよう)」が知られるが、珠洲焼はこれらに並ぶ歴史を持つやきものだった。地域の人々の間で珠洲焼再興の機運が高まり、1979年、およそ500年ぶりに珠洲焼が復活した。
珠洲焼の潔い美しさに魅せられて

篠原さんが珠洲焼と出合ったのは、珠洲焼再興から10年後のこと。実家の寺を継ぐために勤め先を辞めて帰郷した頃のことだった。当時、珠洲市では原発計画が持ち上がっており、推進派と反対派でまちは大きく割れていた。篠原さんは美しいふるさとを守るために反対運動に参加しながらも、もやもやとした思いを抱えていたという。「推進派と反対派が論争に明け暮れるなかで、僕は心によろいをまとって理論武装をして、無理をしていたんだと思う」。そんな時に、開館したばかりの珠洲焼資料館にふらりと立ち寄った。
展示室に足を踏み入れた時、珠洲焼の美しい立ち姿が目に飛び込んできた。凛とした黒、装飾のない潔さ。原発反対運動の中で心ががんじがらめになっていた篠原さんは、いにしえの陶工たちが作った珠洲焼の飾り気のない美しさに見とれ、「自分もこの器みたいに裸になって、一から何かを生み出したい」と思った。それが、珠洲焼への道を歩み始めたきっかけだという。
「黒」と「美」を追求したやきもの

珠洲焼の特徴のひとつが、独特の表情をみせる黒肌だ。珠洲焼は、1200度以上の高温で焼き締めた後に窯を密閉する「強還元焼成(きょうかんげんしょうせい)」という方法で焼き上げる。窯の中が酸欠状態となるため、土に含まれる鉄の酸素が奪われ、還元反応で黒く発色する。
珠洲焼を、珠洲焼たらしめているのは、この「黒」なのだと篠原さんは言う。「この色を出すためには燃料が大量に必要だし、とても効率が悪い。ほかの産地は、技術革新をして生産性をどんどん向上させたけど、珠洲はそれをしなかった。黒を守り通したんですね」。
篠原さんはさらに続ける。「珠洲焼の古陶は、小さな底から立ち上がるフォルムが特徴的。安定感がないから大量生産には向きませんが、この美しい形を変えなかった」。珠洲焼は荘園領主というスポンサーを失い、産地競争に負け、「黒」と「美」を守りながら滅びていった。

珠洲焼の古陶に魅せられた篠原さんの作品も、華奢(きゃしゃ)にも見える小さな底からふくれ上がっていく美しいフォルムが表現されている。
再建したばかりの薪窯が3度目の被災

2024年元旦に発生した能登半島地震。工房がある珠洲市は震度6強の揺れに襲われ、レンガを積み上げて築いた薪窯(まきがま)は全壊した。
珠洲市では2022年6月に震度6弱、2023年5月に震度6強の地震があり、「窯が崩れたのは3度目」だという。2023年の地震後、全国の支援者とともに半年かけて窯を再建し、年明けにようやく新たな灯を灯そうと思っていた矢先の震災だった。
「あたわり」を受け入れる

何度レンガを積み直しても、何度ろくろを回しても、地震がすべてを奪い去っていく。その試練を、篠原さんは「あたわり」という言葉で表現する。「あたわり」とは、与えられた運命やめぐり合わせを意味する北陸地方の言葉だ。「厳しい自然と折り合いをつけながら生きてきた土地です。自然にあらがうことなんてできません。すべて『あたわり』なんですよ」。

篠原さんは薪窯を焚く時、温度計を使わない。炎の表情を見ながらアカマツの薪をくべ、経験と勘で焼き上げる。「いったん火を入れたら、あとは結局、自然に身をゆだねるしかない」と篠原さんは言う。人智が及ばない炎が生んだ珠洲焼もまた、自然の「あたわり」だ。
誰かの心に寄り添う工芸でありたい

地震の後、篠原さんはある高齢女性から声をかけられた。その女性は倒壊した自宅のがれきの中に、珠洲焼の小さな一輪挿しを見つけたという。それを仮設住宅に持ち帰って道端に咲く野花を活けたところ、絶望していた心が少しほどけ、前を向けるようになったと話してくれた。
それは篠原さんの作品ではなかったかもしれない。しかし「珠洲焼が誰かの心を救った」という事実に、思わず涙があふれたという。
「工芸は生活必需品じゃないかもしれないけど、人が心豊かに生きていく力になれる」と篠原さんは信じている。
次世代のために、再び珠洲焼の窯を築く

珠洲焼作家の団体「創炎会(そうえんかい)」には39人が所属している。地震を機に廃業した人や、市外に移住した人もいるが、「珠洲焼の未来はそんなに暗くない」と篠原さんは晴れやかな表情を見せる。なぜなら、ここ数年の間に珠洲焼作家を目指して移住してきた若者たち全員が、珠洲に残って創作活動を続けると決めたからだ。
現在、篠原さんは仮設住宅で暮らしながら窯の再建に取り組んでいる。工房では崩れたレンガがきれいに分類され、元の場所に積み上がるのを待っていた。完成予定は2025年夏。秋には火を入れたいと思っている。
窯の再建は自分のためだけでなく、次世代のためでもある。崩れた窯を築き直し、「若い子たちが育っていく窯にしたい」と願う篠原さん。厳しい自然が育んだ風土のもとで、珠洲焼の炎は何度でも、何度でも立ちのぼる。