好きなことを仕事に”を貫き、人の縁に愛された陶芸家「田端志音」/長野県軽井沢

日本有数の別荘地として知られる長野県軽井沢に「志音窯」を構える田端志音さん。オリジナルの創作活動のほか、江戸時代の陶工として知られる尾形乾山や、美食家で陶工として知られる北大路魯山人の写しにも精力的に取り組み、幅広い年齢層から人気を博している陶芸作家だ。器からこぼれる温かさや、やさしさ、器だけで絵になる魅力がどのようにして生まれるのか、その所以を知るため工房を訪ねた。

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きっかけは、日本一の古美術商

福岡県北九州市出身の田端さんは現在のご主人と出会い、兵庫県神戸に移住。その後、子育てのピークが落ち着いた30代後半の頃に生活費の足しにと、仕事を探していた。「どうせなら好きなことを仕事にしたい」と、かねてより興味を持っていた古美術商の仕事を探していたところ、趣味だった茶道関係の友人から、いくつかの古美術商を紹介してもらうことができた。ピークは過ぎたとは言え、子育て中ではあったため、子どもたちが学校へ行っている平日に働ければと考え、紹介してもらった中から“土日休み可能”などの条件でしぼっていったところ、唯一残ったのが江戸時代から続く大阪の茶道具商「谷松屋戸田商店」。日本一の古美術商とも言われる会社だが、その当時はそんなこともつゆ知らず。面接をしてもらえることとなり、そこからはトントン拍子に話が進み、面接をした翌日から勤務することとなった。

大恩人・日本料理の巨匠、湯木貞一さんから学んだ古美術品

その後、5年ほど勤めたのだが、その半分以上は日本料理「吉兆」の創業者・湯木貞一さんが美術館を立ち上げるため、蔵の整理の手伝いに派遣されていた。

田端さんは、その業務のなかで湯木さんから古美術品を収集した当時の話を聞いたり、実際に触れたり、その素晴らしさを知る機会に恵まれる。この経験こそ、ほぼ素人だった田端さんが作陶を志すようになった重要なターニングポイントのひとつだった。

退職。そして作陶の世界へ

こうして、本物の陶芸に触れながら、その知識を深めていった田端さんだったが、1987年、立ち上げに関わった「湯木美術館」がオープンすると、それまでの忙しい生活が嘘だったかのように手が空き、持て余す時間が多くなった。

ちょうどその頃、兵庫県西宮市と神戸市北区の県境にあるエリアに移住した。関わった一大プロジェクトが済んだことや、通勤に要する時間が長くなったことなど、いくつかの要因が重なり、田端さんは仕事を辞めることにした。

退職後、ぽっかり空いてしまった時間を埋めるように「自分でも、これまで見てきたものを作れないだろうか。例えば、「自分が作った器で趣味の茶事ができたら素敵だな」と考えはじめた田端さん。

作陶をはじめたきっかけは、そんな些細なことだった。

無知から始まった作陶活動

こうして始まった田端さんの作陶活動。しかし、古美術に携わっていた頃に蓄えた知識はあるものの、もちろん陶芸教室にも通ったことがなかったから基礎すら理解していない状態。とりあえず独学だけで焼いてみたが、失敗ばかりだった。

陶芸家・杉本貞光さんとの出逢いと独自路線

そんなある日、京都・大徳寺の住職で、茶人としても有名な大亀老師(だいきろうし)から陶芸家の杉本貞光さんを紹介してもらった。

杉本さんは、「自分が使っているのと同じ窯を使ってみないか? 同じ窯なら、わからないことがあっても教えやすい」と言って、自身が使用する窯と同型のものを使うことを提案してくれた。その後、杉本さんが陶芸家としての才能が広く認められ、想像できなかったほど忙しくなり、全く連絡の取れない状態になってしまった。

窯を購入した際も、窯の業者さんに焼き方くらいは教えてもらえるだろうと高を括っていたが「作り手によって焚き方も詰め方も違うから指導はできない」と言われてしまう始末。作陶の専門書を読んだところで大して参考にもならず、使用する釉薬も、ひとまず最高級品を用意してはみたが、窯の温度管理もよくわからないまま使用して表面に塗った釉薬がすべて流れてしまったり、作陶デビューはもう散々。 しかし、約150万円で購入した灯油式の窯だって決して安い買い物ではなかったし、何より茶道で使う器を作りたいという気持ちが強く、ちょっとくらいの失敗は学びと捉えて、技術のブラッシュアップに励んだ。

湯木さんや大亀老師に意見をもらいながら、とにかく焼いて、焼いて、独学で作陶を続けた。これこそ陶芸家・田端志音としての重要なもう一つのターニングポイントとなった。

尾形乾山を写す

そのターニングポイントとは、湯木美術館立ち上げの際に幸運にも何度か手に取る機会のあった尾形乾山の作品。グラフィック的な要素の多い乾山作品は白化粧をして、そこに鬼板で絵や字を描くスタイルで、もともと字や絵付けに興味のあった田端さんは、自分に向いているのではないかと考えた。

それからは、ろくろで茶碗を引き、白化粧をし、絵を描いて、際限なく焼き続けた。ところが窯から出てきた作品は思っていたものとはかけ離れてたものだった。しかし、途中で投げ出さず、作っては焼き、使用する釉薬を変え、何度も試行錯誤を重ねた。その結果、少しずつ自身が納得する乾山の写しが作れるようになってきたのだった。

きっかけとなった展示会

田端さんは作陶をはじめてから毎年、湯木さんと大亀老師の誕生日に1年の中で一番出来が良かった自身の作品をプレゼントしていたのだが、ある年、大亀老師から「あんた、こんなのがいっぱいできるんやったら、三越か高島屋に言ったるよ」と提案があった。

しかし、当時は、その年のなかで最もよく出来たものをプレゼントしていたので、常に同じ品質のものを作れるとは思っていなかったし、ありがたいとは思いながらも、百貨店での展示会をお願いすることはなかった。そうこうするうちに大亀老師が「ここで展示会をやってみんか?」と顔なじみの名古屋のギャラリーを紹介してくれることに。そこで乾山写や琳派の作品がとても重宝され、展示会の回数も増え、地道に陶芸家としての「田端志音」の名前が徐々に認知されていった。

伊賀信楽への欲望。軽井沢の山地に築いた穴窯

それからしばらくして、田端さんは創作の幅を広げるため、「伊賀信楽(いがしがらき)を焼くための穴窯を築きたい」と考えた。

しかし、穴窯を築ける窯業地(ようぎょうち)は山奥や人里から離れたところが多い。

人との縁で作陶の道に進んだ田端さんにとって、人とのつながりは、重要なファクター。どうせ開窯するのなら、知り合いも気軽に遊びに来ることができる場所が良いと考え、2004年、日本有数の別荘地として全国から多くの人が集まる長野県北佐久郡軽井沢町に穴窯を構えることにした。

そして、めぐり合ったのは約1500坪の山地。広大な斜面は手つかずで、土地の購入後は木を切り、道を作り、まるで開拓者のような生活を送りながら、少しずつ作陶の環境を整えていった。  

完成した穴窯で伊賀信楽を一度焼くには7日間、時間にして168時間ほどかかる。その間、常に薪をくべつづける必要もあるから、到底ひとりではできず、パートナーの協力を得て、ふたりで12時間ずつ交代で寝ながら、窯の火を絶やさないようにする重労働。労力に見合った収入も見込めない。 正直、わざわざこんな山奥に移住せず、神戸に住んで作陶を続けていれば、新しい窯を築かなくてもよかったわけだし、当時軌道に乗っていた乾山の写しだけやっていれば経済的にも体力的にも困ることはなかっただろう。

しかし、この地へ来て、山を拓き、土を起こし、穴窯を築き、この雄大な自然とともに生活しなければ、新たなステップアップはなかったと思っている。それに、この地での苦労を補って余りある有難く、素晴らしい出会いをもたらしてくれたことが何よりも大きいと話す。

人との縁に恵まれた作陶人生

そんな田端さんの作陶人生は、谷松屋戸田商店で働き始めた頃から、本当に人との縁に恵まれてきた。湯木さんや大亀老師、杉本さんなど、名だたる賢人たちから受けた恩は自身が陶芸家として羽ばたくのには、十分すぎるほど。

しかし、それは同時に田端さんにとって大きなプレッシャーでもあった。「私が下手なものを出したら応援してくれた人たちの顔に泥を塗ることになる。だから死に物狂いで頑張った」と話す田端さん。

その思いは技術や知識の向上にも直接結びつき、その結果、恩人たちの顔に泥を塗るどころか、それを誇らせるほどの秀作を世に送り出してきた。今では後進たちがそんな田端さんに憧れ、その背中は追いかけられる存在となっている。

大切に紡いできた人々との縁を今度は自分がつなげる番だと、日々手を抜かず、それでいていつも自然体の「田端志音」の作陶の世界は、人と人とのつながりが生み出す「やさしさ」と、好きなものを追い求め続ける「つよさ」で包まれている。  

ACCESS

田端志音
長野県軽井沢
URL https://www.instagram.com/shion.tabata/
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