長野県塩尻市の南側に位置する奈良井宿(ならいじゅく)。江戸から京都へ向かう中山道の木曽十一宿(きそじゅういっしゅく)に数えられた旧宿場町は、今もなお、当時の面影を色濃く残し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。 江戸の時代には“奈良井千軒”と謳われ、多くの人が行き交う宿場町だったが、時代とともに周辺のインフラは整備され、人流も大きく変化。現在においても年間約60万人が訪れる観光地ではあるが、滞在という旧来の利用目的が薄れてしまった宿場町からは、次第に宿や飲食店が姿を消していった。 町の一角にあった「杉の森酒造」も、木曽五大名酒のひとつとして地域の人たちに愛されていたが、2012年に惜しまれつつ閉蔵。1793年の創業以来、200年以上の歴史に一度幕を閉じた。
新しくよみがえる酒蔵「suginomori brewery」
ところが2020年、休眠状態だったこの酒蔵と近接する民宿をリノベーションし、奈良井宿を回遊するためのハブとなる宿泊型複合施設を作るプロジェクトが立ち上がった。 これに事業アドバイザーとして参加し、いきなりプロジェクトの重要なコンテンツである酒蔵再生を一任されたのが、サンドバーグ弘(こう)さんだ。 サンドバーグさんは、スウェーデン系アメリカ人の父と日本人の母を持つミックスルーツの帰国子女だ。以前勤めていた会社の業務でホテル・旅館などの事業再生に関わり、その中で日本の歴史的資源を活用した再生ビジネスに着目し、事業性のある遊休不動産などの再生事業及び戦略投資を行う「株式会社Kiraku」を設立。宮崎県日南市の古民家をフルリノベーションした高級宿泊施設「季楽 飫肥(おび)」や、京都の歴史ある建造物を活用した旅館型宿泊施設「Nazuna」、一棟貸し施設「季楽(きらく)」の展開など、全国各地の地域再生に携わってきた。 これまで数多くの遊休不動産をビジネスへと昇華させてきたが、酒造りなど全くの未経験。新境地への挑戦だった。
しかし建物を見た瞬間、「観光地のど真ん中にある酒蔵なんて珍しい」と、その直感が先行する。敷地や醸造環境の観点から郊外に蔵を構える酒造が多い中で、創業以来、奈良井宿の景観とともに歴史を重ねてきた建物が持つストーリーを感じたのだろう。また、本来であれば、閉蔵した時点で廃業届けが出され、失効しているケースが多い“酒造免許”が残っていたことも気持ちを後押しした。現在では、よっぽどのことがない限り、新規で日本酒の酒造免許を取得するのは難しいからだ。 もちろん、想いばかりでやり遂げられるほど酒造りが簡単ではないことは理解している。着手後は複数の酒蔵に協業やオペレーションを手伝ってもらえないか、と声を掛けてまわったが、どの蔵からも良い返事はもらえなかった。そんな中、以前、京都のプロジェクトに携わった際に縁があり知り合った松本日出彦さんをアドバイザーに迎える。その当時、京都の松本酒造にて杜氏を務め、「澤屋まつもと守破離」などの銘酒を世に送り出し、日本酒業界でも一目を置かれていた松本さんの協力を得て、徐々に話は進展していく。 こうして始動したプロジェクトだったが、松本さんが少し心配だったことがある。それは、蔵の面積が250平米しかないこと。
そのとおり、日本中探しても、そんな狭小な敷地で酒造りを行う酒蔵はほとんどないだろう。しかし「冬しか仕込まない」「問屋にしか卸さない」という従来の酒蔵のビジネスモデルは、現代のニーズにはマッチしないんじゃないか? という仮説のもと、杜氏の目が行き届き、通年で酒造りができるこのサイズがちょうど良いと考えた。 加えて、この蔵は複合施設内のレストランと近接しており、食事をしながら間近で酒造りを見ることができる。そのエンターテイメント性の高さは、事業にとっても重要なピースだと考えていたからこそ、この場所にこだわった。
誕生した日本酒「narai」
それからは、商品のリリースまでのストーリーを逆算し、ウェブサイトのローンチや最適なチャネルの選択など、高いマーケティング力を活かした展開を一年ほどかけて計画。杜氏には松本さんの蔵をはじめ、各地を廻り酒造りを学んだ入江将之さんを迎え、いよいよ“suginomori brewery”が立ち上がり、2021年10月より最初の酒造りがはじまった。” suginomori brewery”が醸す酒の名は「narai(ナライ)」。ウイスキーのように日本の有名な酒に倣って、地名を冠した。もちろんトレースだけが理由ではない。地名を冠することで、ウェブ検索が普及する現代において、酒と地名、両フックからアプローチできると考えた。 その名に恥じぬよう、エリアならではの味も追求。 先代の頃から使用する木曽川の山水は、「全国で色々な水を飲んできたが、奈良井の水はトップクラスの綺麗なテクスチャーを感じる。」と松本さんが絶賛したほど。 恵まれた自然環境に寄り添いながら、なるべく地のものを使用して絞る“信州しぼり”にこだわった。 もちろん、こだわりが先行してニッチなものにならぬよう、世界中のマーケット展開を考えて、万人が楽しく飲める日本酒を目指す。 この事業に携わり、自身が帰国子女だからこそ、経験値に頼る脆弱なマネジメントや情報発信の整備など、日本の酒蔵経営の課題を俯瞰的に見ることもできた。 四季醸造の導入で生産効率の向上と従業員の安定的な雇用を実現したのも、海外生活が長く、日本の伝統産業に対し、素直に疑問を持てるサンドバーグさんらしいアイデアだ。 今後はここで培ったナレッジを活かし、経営不振に陥る酒蔵の再生に積極的に携わっていきたいと話す。
なお、酒蔵に隣接する酒蔵直営の角打ち&作業場である「sagyobar」では醸造したての「narai」等を楽しむことができる。奈良井宿の新たな観光スポットの1つになることを目指すとのことだ。