静岡県の中部、日本有数の大都市である東京、名古屋、大阪を繋ぐ東海道の商圏に恵まれた静岡市。世界有数の総合模型メーカーである株式会社タミヤが本社を構えるこの街がプラモデルや模型の聖地であることは有名だが、古くから続く「伝統工芸の集積地」としての一面は意外と知られていない。
県の郷土工芸品に指定されている駿河漆器、駿河蒔絵、駿河挽物(ひきもの)、そして国の伝統的工芸品に指定される駿河竹千筋細工、駿河雛具、駿河雛人形。多岐にわたる工芸がこの地で発展した背景には、徳川家康公の存在と、長い年月をかけて育まれた分業のネットワークがあった。この伝統の土壌に立ち、現代の家族の形に寄り添う新たな雛人形「きおくひとえ」を提案し、全国から注目を集める工房がある。創業から100年以上の歴史を持つ「人形工房 左京(さきょう)」だ。
「遊ぶ」から「飾る」へ。雛人形のルーツ

雛人形のルーツには諸説あるが、そのひとつが平安時代、宮中の幼女たちが興じた「ひいな遊び」。「ひいな」とは「小さく愛らしいもの」を意味し、当時の貴族の子供たちにとって、現代でいう「おままごと」のような日常的な遊びだった。
この“日常の遊び”に、劇的な変化が訪れたのは江戸時代初期のこと。江戸幕府が、女の子の健やかな成長と幸せを願う行事として3月3日を「上巳の節句(※ひな祭りの正式名称)」に制定すると、それをきっかけに、人形作りの技術は飛躍的に向上。着物や顔立ちは豪華絢爛なものへと進化し、現在の雛人形に至ったと言われている。
その雅な姿から、雛人形の産地として京都を連想するが、じつは人形の出荷額は埼玉県さいたま市岩槻区が日本一。雛具の産地としては静岡県静岡市が日本一を誇っている。
天下人が愛した街、駿府に根付く工芸文化

そんな静岡市に工房を構える左京。同市の工芸の歴史に於いて徳川家康公の功績は計り知れない。
江戸時代初期、家康公が隠居として駿府城(現在の静岡市葵区)に入った際、全国各地から宮大工、指物師、塗師、金具職人といった腕利きの職人たちを招集。彼らが城下町に定住し、その技術が脈々と受け継がれていったことが、今日の静岡工芸の礎となっている。

なかでも、本物の家具調度品と同じ工程で作られる屏風や長持(嫁入り道具などを収納する木箱)、三宝(お供え物を載せるための四角い台)などの「駿河雛具(ひなぐ)」の存在は圧倒的で、最盛期には国産シェアの9割を占めていたほどだ。
また「駿河雛人形」が工芸として発展する基礎となった雛人形の胴体(胴柄)生産も、静岡県が全国シェアの約7割を占めていた。これは駿河雛具の起こりとは異なり、江戸時代から天神信仰が盛んだった静岡県志太郡(現在の島田市・藤枝市・焼津市の一部)で節句に用いられていた菅原道真公を模った土人形「土天神」に衣装を着せたものがルーツと言われている。特徴は衣装が上下に分かれていること。衣装が一体型になっている京都製の雛人形とは異なり、衣装製作の分業が可能になったため量産化を実現、生産量の拡大に至った。
1994年(平成6年)に「駿河雛具」「駿河雛人形」が、国の伝統的工芸品に指定されて以降は、ブランドとしての地位も確立されてきたが、それ以前はあくまでパーツごとを全国の問屋へ供給するOEMとしての性質が強かったため、生産シェアに相反して産地としての知名度はあまり高くなかった。

「静岡にはそれぞれの部品を専門で作る職人がたくさんいたんです。木地を作る人、漆を塗る人、蒔絵を描く人、金具を作る人。それを問屋が回って集めて、形にしていた。」と、同社の3代目・望月和人(もちづき かずひと)会長は話す。
左京のルーツもまた、この職人のエコシステムの中にあり、初代は家具や神輿に使われる金具職人だった。
「雛具には箪笥(たんす)や長持など40種類近い道具があり、それらには精巧な金具が必要です。とはいえ金具は単なる部品ですから、問屋次第で仕事がなくなることもある。それなら自分が雛具全体をまとめる問屋になれば事業も安定するんじゃないかと。それが左京の始まりです」。

こうして静岡市内の職人と連携して雛具をまとめる問屋として財を成した初代だったが、雛飾りの主役はあくまで雛人形であり、いずれはそれらも扱いたいと考えていた。
そのため、まず手始めに息子を人形の一大産地である埼玉県岩槻市(現在のさいたま市岩槻区)の職人の下へ修業に送り出した。
その息子こそ、後に2代目となる和人会長の父。2代目は修業先で雛人形作りを学びながら、初代の思惑通り、「雛具だけではなく、雛人形もうちで取り扱えばいいのではないか?」と考えるようになっていった。
というのも、2代目が家業に入った当時、雛人形の胴体部分は天神人形(菅原道真を象った節句人形)作りが盛んだった静岡県内、人形の顔となる「頭(かしら)」は岩槻など、それぞれの産地から部品を調達し、東京の問屋で人形として完成させるのが一般的だったため、これを自社で組み合わせられれば、雛具も雛人形もまとめて収めることができる。
初代の問屋としての仕事ぶりを近くで見て学んだ2代目にとって、これに需要があると考えるのは自然な流れだろう。

しかし、考えや思いつきだけではビジネスとして成立しない。そこは「修業を通じて雛人形職人との関係、一大産地である岩槻との関係が構築できる」という初代の目論見が活きた。
「うちの父は修業時代のツテを使って、岩槻の職人から頭を直接買えるようにしたんです。それが大きかった」と、和人会長。
こうして左京は静岡市ではじめて、雛飾りを一式で扱う問屋となった。
「東京の問屋を介さず、関西の小売業者に一式で納品できれば、関西方面のシェアが狙える。(関東と比較して)関西との距離が近いことは必ず地の利になる」という2代目の流通戦略は、時代背景とともに左京を大きく成長させていくこととなる。
第二次ベビーブームの恩恵

時代はちょうど高度経済成長期に差し掛かった頃。第二次ベビーブームの影響もあり、雛人形は飛ぶように売れた。
七段飾りが主流で、物量を集めることが最優先とされた時代。バラバラに仕入れることが多かった雛飾りを一式で卸すことで、小売業者にかかる経費と負担を大幅に軽減したのだ。
「年末になると大阪方面から業者の人たちが大きなトラックで仕入れに来るんですよ。腹巻に札束を山ほど入れて、我先にって。」と、和人会長は当時を振り返る。
多品種少量の時代へ。3代目が追求したのは「自分が欲しい雛人形」

その後、和人会長が3代目として家業を継いだのは、高度経済成長期も落ち着き、国民の生活が大きく変わろうとしている時期だった。
この頃、あらゆるジャンルに於いて、消費者のニーズに合わせて大量生産から多品種少量生産へと潮流が変化。
そこで和人会長は、「(雛人形を)買う人って私と同じ世代が多いよな。だったら私がほしいものを作ればいいんだ。」と、慣例化されていた雛衣装の色の組み合わせを変えたり、衣装に静岡県の伝統工芸・遠州木綿のコーデュロイや純白の西陣織を使ったり、旧来の枠に囚われない、“自分がほしいと思う雛人形”の開発に勤しんだ。
時代的にも、核家族化が進み、その住宅事情とともに、主力商品も雛壇を豪華絢爛に彩る「段飾り」から「親王飾り(男雛と女雛のみ)」へと変化しており、主役となる男雛と女雛に個性を持たせたことが功を奏し、差別化にも成功。
とはいえ、コンパクトになるということは、セットあたりの雛人形や雛具の数も減るため、単価は下がる。
差別化できたとはいえ、少子化も顕著に進むなか、より明確なブランディングを行っていかなければ、いずれ立ち行かなくなるという危機感もあった。
そんな3代目の危機感を拭ったのが、現在、代表取締役社長を務める4代目であり、息子の琢矢さんだった。
次世代への継承。4代目が見出した新たな可能性

4代目・望月琢矢さんが家業を継ぐことになったのは、大学2年生の時。
「元々、左京を継ぐつもりはなかったので大学に進学したんですけど、兄が継がないことになって、『じゃあ、お前か』という軽い感じでバトンが回ってきました」
工房と自宅が離れていたこともあり、作業場に足を踏み入れることもほとんどなく、業界の状況もよくわかっていなかった琢矢さんにとって、雛人形は身近な存在ではなかった。
「伝統産業が右肩下がりだということも知らない状態で入ってしまった。周りは跡継ぎもなく『あと5年で畳もうか』という会社ばかり。そこで、はじめて焦りを感じました。」
大学卒業後、社会勉強も兼ねて都内の不動産関連のシステム会社で2年間営業を経験してから静岡に戻ったものの、待っていたのは前職とは比べものにならないほどアナログな現場だった。
そこで琢矢さんが始めたのがSNSを活用した情報発信。職人としては素人同然だったから、まずはお金をかけずに会社に貢献できることを探す、そんな気概だった。デジタル領域にも携わっていた東京での勤務経験も活きた。
当時、Instagramをビジネスに利用するのはまだ珍しかったこともあり、4ヶ月でフォロワー1万人を獲得。自社のこだわりを、わかりやすいビジュアルで発信しつづけたことで、メディア関係者からの問い合わせも増えていった。
捨てられない想いを形に。「きおくひとえ」の誕生

4代目ならではのビジネスビジョンが見えてきた中で新たな転機が訪れたのは、博報堂のグループ会社「SIGNING(サイニング)」のクリエイティブディレクターからの「子ども服に思い出があって捨てたくないって人が多いんだけど、飾ることもできない。この悩みと雛人形を掛け合わせられないか」という提案。
その人自身、3歳の子を持つ父親で、実体験に基づいた課題だった。こうして、企画から約1年半をかけて、2024年に「きおくひとえ」が誕生。
最大の特徴は、利用者の思い出の子ども服を雛人形の衣装に仕立て直すことだ。Tシャツやワンピース、肌着──どんな布でも、裏打ちという補強を施せば人形の生地として使える。
思い出の服が雛人形に生まれ変わる。その一体一体に込められた物語こそが、「きおくひとえ」の価値なのだ。

表衣(おもてぎぬ)、重ね、単(ひとえ)、唐衣(からごろも)、襟といった複数の層から成る雛人形の衣装に対し、どの布で仕立てるか、どの柄をどこに配置するかを、利用者と相談しながら決めていく。
「(利用者の)思い入れのあるものにハサミを入れ、新しいカタチにして提供する。大切な思い出ごと預かるわけですから、常に細心の注意と気遣い、そして一人ひとりの思い出に向き合う心遣いを持ってやっています」。
価格は男雛と女雛のセットで約15万円から。相場と比べて安くはないが、1点もののオーダーメイドとして考えれば適正価格、付加価値を考えれば利用者にとってそれ以上の価値となるだろう。
近年、新しい取り組みとして「きおくひとえ」を自分で製作するプランも新設した。
オンラインや郵送でのやり取りだけでなく、直接現地へ思い入れのある服や生地を持ち込み、その場で同社の職人と一緒に雛人形を完成させていく体験型のプランだ。
通常、きおくひとえは制作開始から納品まで4〜6ヶ月程度掛かるが、このプランでは打ち合わせから完成まで、わずか約半日で行う。
本来、複数の作業と並行して製作を行う職人が、その日に限り4~5名体制で体験プランでの作業を最優先したり、普段は外部へ委託する細かな部品の製作や縫製も工房内の職人が一貫して行うなどして、大幅にスケジュールを短縮する。
これらはすべて、わざわざ現地まで足を運んでくれる体験者の貴重な時間を無駄にせず、臨場感のある感動を提供したいという配慮から。
現場の手を止め、多くの職人のリソースをこのプランに集中させるため、通常のきおくひとえよりも高い価格設定にしているが、細かな柄行きの指示や色目のバランスなどをリアルタイムで熟練の職人と相談し、短い時間でディテールまでこだわって仕上げることができる、まさにオーダーメイド商品の極みと言えるプランだ。
思い出を紡ぐ雛人形に自身が手を加えるというエクスペリエンスは、特別感をより一層高める。
伝統と革新の間で。父が押す息子の背中
しかし「きおくひとえ」のような新しい挑戦には、当然ながら批判もある。
そんな同業者からのチクリとした声にも、望月親子は動じない。

「従来の雛人形を買わなかった人も、きおくひとえだから買ってくれる。慣例から少しくらい外れたって、これをきっかけに雛飾りに改めて目を向けてくれるなら、むしろ良いことではないか」
新しい需要の創出こそが伝統産業の未来を拓く。琢矢さんの挑戦について和人さんはそう確信しているから、どんな批判があろうと、親として、そして師として背中を押すと決めていた。
次世代への展開。祝い事から日常のアートへ

「きおくひとえ」を軌道に乗せた琢矢さんが次に目指すのは、「雛人形」に「アート」としての需要を持たせること。
その際に払拭しなければいけないのが、日本に根付くアニミズム。全てのものに魂や精霊が宿るという考え方だ。一神教が入らなかった日本だからこそ残った、独特の精神性。
「日本人って人形を捨てられないんですよ。手放すにしたって、ゴミ箱にポイじゃなく、神社やお寺でお焚き上げをして弔う。」
しかし、琢矢さんは先代から「江戸時代の花街周辺には雛人形を売る屋台がたくさんあって、自分の推しに会いに行く前に雛人形を一体買って、手土産にしていた」という話を聞いたことがあった。
節句以外にも需要があったことに驚く一方で、フィギュアがブームとなり世界中で取引価格が高騰している現状を鑑みて、雛人形にも、その可能性があると感じた。
だからこそ琢矢さんは行事としてだけでなく、カルチャーの価値を高めたいと考えたのだ。

ベンチマークとするのは、福岡県福岡市にある博多人形の老舗「中村人形」4代目を務める人形師・中村弘峰さん。スポーツや怪獣など、博多人形を独自のスタイルで表現する手法で、現在世界中から注目を集めている。
「中村さんの作品がまさにそうだと思うんですけど、『人形=怖い』というイメージを払拭して、アートやインテリアとして飾れるものにしたい。『BE@RBRICK(ベアブリック)』や『LLADRO(リヤドロ)』のように、アートとしてコレクションされるものへ昇華できたら良いんですけどね。」

これに向けたチャレンジもはじめている。
家康公没後400年の際には、フィギュア制作の権威である大阪芸術大学に家康公の顔を再現した頭を作ってもらい、家康公を象った雛人形を完成させた。また、一般流通する頭の代わりに、AIで合成した両親の顔を将来の子どもに見立てて3Dプリンターで作る構想もある。
このように雛人形の伝統や本質を守りつつ、時代の潮流や技術の進歩を柔軟に取り入れる左京は、徳川家康公が育んだ職人の街で、100年以上にわたり時代に応じた革新を重ねてきた。部品から問屋へ、問屋から製造卸へ、そしてパーソナライズへ。
「雛人形は、まだ日本古来のお祝い事を演出するツールとしての領域を抜け出せていない。もちろん本来の価値を高めていくことも大切だが、これをアートとして世界へ発信し、海外の人たちに『いいね』と言ってもらえるものを作っていくことで、その魅力はより一層高まっていくはず」。そう語る琢矢さんの言葉には、新しい価値を創造していこうという強い意志が宿っていた。



