愛媛県今治市・大島。宮窪(みやくぼ)漁港をはじめ、来島海峡の激しい潮流の中で育つ魚介類が豊富な漁師町だ。この地域で18歳から漁師として活躍する藤本純一さんは、若くして「伝説の漁師」と呼ばれている。なぜ藤本さんの魚は日本・世界のトップシェフ達から信頼され、求められているのか。
鮮度のいい魚を“作って届ける”

藤本さんの魚を扱うトップシェフたちが「藤本さんの魚はほかと違う」と言う。同じ産地、仮に同じ個体だったとしても獲る人によって味や鮮度、身質に違いが出るのはなぜか。世界的に見れば、日本の市場の鮮度管理はトップクラスにある。しかし、魚に与えるストレスまで配慮し、神経締めを施す処理をされた魚は市場でも数少ないだろう。藤本さんは、獲った時点で100点の魚を鮮度と身質を微調整しながら、100点に限りなく近い状態で各シェフへ届けることを追求している。これが、ほかと明確に一線を画すクオリティの秘密だ。
魚にストレスを与えず、適切に処理を施す

処理前に活発に暴れた「イカっている」魚は、筋肉に乳酸が蓄積し、内出血による悪い血が巡ることで、酸味や臭みが出やすくなると一般的に言われている。しかし魚にストレスを与えずに休ませる工程と、藤本さんが適切な締め方で処理を施すことで、筋肉内の乳酸や血液成分は穏やかに分解され、魚本来の甘みや深い旨味が引き出される。
藤本さんは鮮度の良さを測る指標として「死後硬直までの時間」を挙げている。一般的な魚は死亡後3〜5時間ほどで死後硬直が始まるのに対し、藤本さんの手法を施した魚は30時間近く“身が生きた状態”を保つという。この差を生むのは、魚に与えるストレスを最小限に抑え、最適なタイミングで処理を施す緻密な技術と経験である。
「神経締め」の第一人者

藤本さんの技術の代名詞ともいえるのが「神経締め」である。24時間以上生け簀で休ませた魚を追い込むことなく静かにすくい上げ、頭部を一撃して脳を潰し動きを止める。そして脊髄近くを通る神経にワイヤーを通し、脳から筋肉に信号が届かないようにすることで、死後硬直と腐敗を遅延させる。魚ごとに最適な締め方や潰す脳の位置は異なるが、藤本さんはそのすべてを的確に熟知しており、魚は締められている間もまったく暴れないという職人技を見せる。
血抜きも同時に行う。「血は旨味だから20%抜いて80%ほど残すのが適量。抜きすぎると旨味がなくなり、抜かな過ぎると生臭さが残る」。さらに熟成処理にも精通しており、熟成魚は周囲が始める何年も前から手がけていた。実際に藤本さんが処理したマナガツオは、80日ほど鮮度を保つこともある。
漁師であり魚屋でもある、トップシェフと分かち合う魚の価値

漁師一家の4代目。幼少期から祖父の船に乗り、その日獲れた中で好きな魚を選ぶ。そんな目利きの英才教育で育った。漁師になってからも「魚を獲って、選び、締めて、食べるところまで」、とにかく自分自身がおいしいと思える魚を食べるための実験をひたすら一人で繰り返していた。26歳の時点では、神経締めを施した魚を豊洲市場へ出荷していたものの、神経締めの手法自体の認知度が低かったため、市場での高い評価にはつながらなかった。
転機は28歳の頃。大阪の料理人に魚を直接届けたところ、その鮮度と旨味が高く評価され、直接購入のオファーを受ける。これを機に「量の大小に左右されず、自らの価格で魚を買ってくれる市場で勝負する」という方針を打ち立て、営業活動は行わず料理人同士の横のつながりとクチコミのみを通じて販路を拡大。現在では、全国約300軒のトップレストランで藤本さんの魚が提供されている。2021年にはレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ2021」のテロワール賞を受賞。
料理人のための漁師直送

地元・今治市のしまなみ海道にあるミシュラン一つ星鮨店「赤吉」。大将の赤瀬淳治さんと藤本さんは、互いの魚を扱う技術や知識を認め合い、ともに地域の魚の魅力を発信し続ける仲だ。そんな赤瀬さんは、藤本さんの扱う魚を「同じ生け簀の魚でも、藤本さんが獲って締めたものはわかる。晴天のように澄んだ旨味が広がる」と評する。それに対し「その違いがわかる人はごくわずか」と藤本さんは笑う。

こだわり抜いた魚の価値を伝えるには、単に「最上級だ」と言うだけでは不十分だ。取引前に食べ比べてもらい、実感してもらうことが条件。その後に本当の取引が始まる。藤本さんは魚を卸す店に足を運び、シェフのイメージに寄り添い、魚の仕上がりを調整する。市場流通ではできない、漁師ならではのきめ細かなマッチングが強みだ。
高鮮度を極めた、ハイエンド食体験

どれだけ鮮度にこだわっても、流通の面では限界がある。藤本さんと赤瀬さんらはチームを組み、「赤吉」をまるごと貸し切る間借りレストラン「虹吉」を立ち上げた。産地である今治・しまなみへと客を招き入れ、旬の獲れたての魚を最上級の状態で仕上げて提供する場の実現だ。調理を担うのは、藤本さんの魚に魅せられた多彩なジャンルの全国トップシェフたち。産地ならではの素材を最大限に引き出すことで、「ローカル水産ガストロノミー」という新たな美食体験を切り拓いている。さらに「虹吉」は次のステップへ進化を遂げ、ハイエンドな食体験を楽しめる「オーベルジュ藤本」として、2026年のオープンを予定。獲れたての魚が放つ「生きた味」には、何ものにも代えがたい魅力がある。
世界を目指し、文化として伝承する

藤本さん一人では漁獲量や取引先の数に限界があることを感じながら、地元の人たちで展開できる仕組みづくりにも着手し始めている。漁と、培ってきた魚のクオリティに関する知識や技術を地元漁師たちに伝え、最終的には自分が愛媛に必要とされない存在になることを目指しており、その視線の先にはすでに世界市場がある。
世界各地に流通する魚は、クオリティが高いとされる日本市場に比べると、必ずしも最良の状態で届けられているとは言い難い。藤本さんは実際に海外の漁船に乗り込み、魚を最高の状態で締める技術を直接伝え、その魚が現地のトップシェフたちによって最高の料理へと仕上げられる未来を思い描く。

極めた「魚を締める」という文化を、ジャパンクオリティとして世界へ広げていくこと。そのためには、単発的な取り組みではなく、文化として定着させることが不可欠。漁師たちが生み出す魚の価値を高め、それを適正に評価し、買い支える仕組みを築くことで持続的な文化継承が可能となる。
藤本さんの最終的な目的は「世界で一番おいしい魚を食べること」。昔から好奇心をもとに続けてきた漁師としての実験の延長線上にある。その目標を達成し、自らの手がけた魚が世界一であることを確かめることができれば、思い残すことはないと話す。世界を視野に展開し、美食の世界においても、藤本さんの挑戦はその影響力をますます大きくしていくだろう。