福岡県福岡市で約400年にわたり作られてきた博多人形。実は博多で作られる粘土製の人形の総称を博多人形と呼び、一口に博多人形と言っても様々なスタイルが存在する。若手の博多人形師、「中村人形」4代目の中村弘峰さんは、そんな博多人形界でも特にオリジナリティのある作品を生み、熱い視線を注がれているひとりだ。
大正時代より4代続く中村人形

中村人形の始まりは大正時代だ。初代・中村筑阿弥(ちくあみ)氏は、現代でいう投資家、米相場師の裕福な家に生まれた。少年時代には大工や水泳選手に憧れるも、大事な跡継ぎゆえ「危ない」と反対され、ようやく許されたのが人形師になることだったという。13歳で博多人形の名門・中ノ子家(なかのこけ)に丁稚奉公に入り、その9年後、1917年に独立。以降、2代目衍涯(えんがい)氏、3代目信喬(しんきょう)氏、そして4代目弘峰(ひろみね)さんと、父から子へバトンが渡された。
人形が持つ魅力、役割とは

博多人形を代々手がけてきた中村家では、人形の役割を独自に見つめ続けてきた。焼き物や織物など、日常の中で用いられる工芸品とは異なり、人形には「使う」ための機能がない。それでもなお、人の心に訴え、文化や時代を映す存在として受け継がれてきた点に、その価値があるといえる。
実は、弘峰さんもこのことについて、幼い頃から関心を抱いていた。しかし人形師として人形と向き合い、3代目とも対話を重ねる中で、「人形にも機能がある」ことに気づいたという。それは「祈る」こと。例えばお雛様や五月人形は、子どもの健やかな成長を祈って作られてきた。またちょこんと置かれた人形が、静かに心を慰めてくれることもある。中村さんはそこに「用の美」があり、だからこそ人形は伝統工芸のひとつとされているのだと理解したのだ。人形とは、人の祈りが形になったもの。そして人形師とは、人の祈りを形にする仕事。
中村家の人形づくりは、伝統を受け継ぎながらも自由な発想で生み出される。それは、時代が変わっても、人形が果たす「祈り」の役割は変わらないという信念からだ。人に寄り添って、夢や希望を与えるものを100年以上作り続けている。
東洋と西洋、それぞれの“人形感”
弘峰さん曰く人形は、「神と人の間にあるもの」でもある。ただしこれは、日本だからこその考え方で、西洋では少し異なるそうだ。西洋ではまず神がいて、神が自分の姿に見せた小さきものとして作ったのが人間であり、その人間が自分の姿に見せた小さきものとして作ったのが人形。つまり神・人間・人形という順で捉えられることが多い。一方、日本を含むアジアの多くは多神教で、自然崇拝も基本にあるため、神=自然、そこに人がいて、人形はその間を繋ぐために作られたもの。つまり神・人、その間に人形があるという構図で捉えられている。
そうした考え方の違いから、以前、弘峰さんが海外で博多人形を「doll」と表現した際、「地位が低いもの」「アートではないもの」とみなされ、展示を断られるケースがあったという。以来、中村さんは博多人形を「sculpture(彫刻)」または「art」と表現し、この1つのアクションも博多人形の魅力を世界に届ける一歩になると考えている。
海外からも高い評価を受けた「アスリートシリーズ」

弘峰さんの代表作と言えば、野球やアーチェリー、プロレスなどの選手をモチーフにした「アスリートシリーズ」だ。注目されるきっかけとなったのは、2016年に金沢で開催された「第3回金沢・世界工芸トリエンナーレ」の「2017金沢・世界工芸コンペティション」で優秀賞を受賞したことだった。
保育園時代から「人形師になる」と決めていたという弘峰さんにとって、東京芸術大学で彫刻を学んだのち、歩み始めた人形師の道は、傍から見ると順風満帆に映ったかもしれない。けれど弘峰さん曰く、充実した日々の中にも焦りがあった。
なぜなら中村家では、「代々違うことをする」、「親と似た人形は作らない」ことも受け継がれてきたからだ。父・信喬氏は、伝統や技術を継承しながらも、肖像やモニュメント、博多祇園山笠の人形など幅広い作品を手掛けてきた。中でも、天正遣欧少年使節団を主題とした人形づくりに取り組み、2011年にはローマ法王に謁見して人形を献上した実績を持つ。そのように自らのテーマを追究し、世の中から高く評価される父の背中を見ながら、弘峰さんはいつも「生みの苦しみ」を感じていたという。
「アスリートシリーズ」は、その苦悩を経て、弘峰さんが初めてわが子の五月人形を作るタイミングで生まれた。「伝統的なものばかりに寄ると、芸大時代の友人は無反応、一方、斬新すぎるものに傾くと、人形界からの反応は今ひとつ。その狭間で苦しむうち、“どちらにも響く、突き抜けた作品”を作るタイミングはここしかないと考えました」と弘峰さん。そして五月人形を自ら再解釈。桃太郎や金太郎をモチーフとした五月人形は常に時代の英雄像を描いてきたのではないか、という仮定に至り、それが現代のアスリートの姿と重なった。
博多人形が生まれるまで
躍動感あふれるフォルムに、細やかで美麗な色彩。弘峰さんの人形が、観る人の心を惹きつけるのは、確かな技術の蓄積の上に新たな発想が重ねられているからだ。
博多人形が出来上がるまでには、伝統的技法によるいくつもの工程を要する。まず粘土を練り、ヘラや指を使って形を整えていく。原型が完成したところで頭や袖などのパーツを全て分割して石膏型を取る。そして出来上がった型に7mmほどの厚みになるよう粘土を指で押し込んでいき。中が空洞の各部位を作成する。これを生地押しと呼ぶ。そして、各生地を再びドベで接着し、成形する。乾燥させて焼成し、焼き上がったものに、膠で溶いた顔料や岩絵具で彩色し、ようやく完成だ。原型から型を作りを経ずに直接原型をくり抜いて中を空洞にする1点ものの制作法を採用することもある。像を遥かに超える、手間と時間を要する人形づくり。工程を頭に入れた上で改めて人形を眺めると、さらに胸が熱くなる。
人形師としてのこれから

「アスリートシリーズ」で自らの方向性を見出した弘峰さんには、今や様々なオファーが寄せられている。「ゴジラ」70周年記念のために制作した「追憶の呉爾羅(ゴジラ)」(2023)、「グランドセイコーブティック 表参道ヒルズ」のオープニングでショーウィンドウを飾った「刻(とき)の獅子」など、伝統工芸品・博多人形の新しい姿を世の中に次々と送り出している。
ニュートラルな受信体でありたい

一方で、博多祗園山笠の帯のデザインや、アニメの原画、3Dモデリングなど、人形づくり以外のオファーにも応えているのが弘峰さんのスタイルだ。そこには中村家に代々伝わる家訓、特に3代目の「ニュートラルな受信体になる」という言葉が大きく影響している。「様々なことに応えることで、見えてくるものがあるんです。それに人形師にはこんなに面白いことだってできる、ということも伝えられると思って」。
現代の人の心に届く人形を

今、弘峰さんは、「江戸時代の人形師が、ひょんなことから現代にタイムスリップしたら」という設定で人形作りに向き合っている。江戸時代、人々は人形を求めて人形店を訪れたが、それは現代で言うなら、フィギュアを求めてフィギュア店を訪れる人々の姿に通じはしないだろうか。
「人間が存在する以上、人形には無限の可能性があると思います。人形は、その形状だけでなく、身につける着物、持ち物など、全てに見所を備えた総合芸術。自分の技法や知識を駆使して、その部分をもっと深めていきたいですね。人形に本物の刺繍が施されたスタジャンを着せてみるのも面白いかもしれない。そういう人形遊びをしてみたいです」と話す弘峰さん。2023年4月には、福岡市中央区桜坂にある中村人形工房より徒歩1分の場所に、私設ギャラリー「傀藝堂(かいげいどう)」をオープン。3代目、4代目の作品はもちろん、弘峰さんの妹で書家の中村ふくさん、さらに海外アーティストの作品なども交えながら、ジャンルレスな企画展を行なっている。いち伝統工芸に囚われず、“今”を取り入れ、現代に向き合うニューウェーブの躍進を期待せずにはいられない。



