群馬県の西部に位置する安中市松井田町。日本三大奇勝の一つとして知られる妙義山がそびえ、その荒々しい岩肌が創り出した美しい景観は町のシンボルとして親しまれている。雄大な自然に囲まれた静かな山の麓に、碓氷製糸株式会社がたたずむ。すぐ近くを流れるのは利根川支流の碓氷川。この清らかで豊富な水が、良質な生糸生産を支えている。
現役で稼働する器械製糸工場

2014年に世界文化遺産に登録された近代日本産業の象徴「富岡製糸場」。ここでは役目を終えた自動繰糸機が動くことなく展示されているが、碓氷製糸はこれと同じ機械が今もなお現役で稼働し、繭から生糸を作り続けている。
碓氷製糸は昭和34年(1959年)、周辺地域の農家によって碓氷製糸農業協同組合として設立された。以来60年以上にわたって操業を続けている。近年は農協の組合員数の減少により、県や安中市、富岡市などの出資を受け、平成29年(2017年)に株式会社組織となって今に至っている。
ピーク時には全国に1800以上あった製糸会社。その後は縮小の一途をたどり、現在、日本で操業している現役の器械製糸工場は、わずか2カ所にまで減少してしまった。そのうちの一つが、この碓氷製糸である。
「製糸」とは、養蚕農家が生産した繭から生糸をつくる一連の作業のこと。ここ碓氷製糸には群馬県のみならず、全国各地で生産された繭のうちの約7割が運ばれてくる。つまり碓氷製糸は生糸の生産量ナンバーワンを誇る国内で最大規模の製糸工場なのだ。
国産生糸は危機的な状況
とは言え、製糸産業の現状は厳しい。農林水産省のデータによると、平成元年に6000トンを超えていた国産生糸の生産量は、令和5年にはわずか9トンまで落ち込んでいる。生糸の輸入量に目を向けると、令和5年の輸入生糸が175トン。つまり国産生糸は、国内で流通している生糸の5%にも満たないのだ。
産業規模の大幅な減少の背景には、中国やブラジル、インドなどの安価な輸入品による市場での競争力の低下や、化学繊維の普及によって絹製品の需要が減少したことなどが挙げられる。さらにこの状況に追い打ちをかけるのが養蚕農家の減少である。
かつて養蚕は東北以南の各地で行われていたが、現在は関東と東北を中心とする小規模な産地が残るのみとなり、養蚕農家の数は非常に少ない。しかも生産者の高齢化も進んでおり、全国的に後継者不足が深刻な問題となっている。そんな中にあって群馬県は全国の繭生産量の約4割を占めている。
国産生糸にこだわる

碓氷製糸が大切にしているもの、それは「純国産」へのこだわり。海外から輸入した繭や生糸を使用しても、日本で加工した絹製品であれば「国産」と名乗ることができるのだが、碓氷製糸で作られる生糸は、単なる国産とは一線を画す。日本で飼育された繭だけを使用した高品質な「純国産」だ。国産繭から生産された生糸のシェアは、わずか1%にも届かないという。この高品質な純国産生糸は主に着物用として出荷・販売されている。
生糸になるまでの工程

工場内を案内してくれたのは代表の安藤俊幸さん。養蚕農家から届いた繭は、中に入ったさなぎが羽化しないように、荷受け後すぐに熱風乾燥させてから繭倉庫で貯蔵するという。
選繭(せんけん)

品質の良い生糸を作るため、出庫された繭を選別する作業。2匹の蚕が作った玉繭(たままゆ)、汚れた繭、奇形の繭などを取り除いていく。はじかれた繭も玉糸や絹綿などに加工されるそうだ。ちなみに中のさなぎは肥料や漢方薬などに利用されるらしく「シルクは捨てるところがない」とのこと。
煮繭(しゃけん)

選繭の次は、糸のほぐれを良くするためにお湯や蒸気で繭を煮て柔らかくする。約20分かけて繭は高温・低温・蒸気など6つの部屋を通過する。
繰糸(そうし)

煮繭から糸口を取り出し、目的の太さになるように数本の糸を撚り合わせていく作業。これこそが製糸工場の核ともいえる工程だ。繭はお湯の中でゆらゆらと運ばれながら、小さなホウキでかき出され、もつれた糸から目に見えないほど繊細な1本を引き出し、自動繰糸機にセットされる。生糸が細くなると繊度を感知し、自動的に繭が追加され、生糸は一定の太さで繰り続けられる。糸が切れた時は、職員が手作業で手際よくつなぎ直す。
揚返し(あげかえし)

自動繰糸機で小枠(こわく)に巻き取られた生糸を、乾燥させながら外周150cmの大枠に巻き返す。この作業は後で扱いやすくするために行う。
仕上げ
出来上がった国産生糸は、束にしてねじりを加えて整える。さらにいくつかを束ね、箱に詰めて出荷する。
自動繰糸機は日本の技術力の結晶

ちなみに、使用している自動繰糸機は、自動車メーカーの日産が製造した1980年代の機械だという。かつて、トヨタ、日産といった自動車メーカー各社は繊維産業用の機械を世界に先駆けて製造していたそうで、その当時に培われた高い技術力が、今日の自動車産業に受け継がれている。自動繰糸機は、今となっては買い替えはおろか、部品交換ですらままならない貴重な機械。職員が自らメンテナンスをしながらずっと大切に使い続けている。
碓氷製糸はなぜ生き残ったのか

全国の製糸工場が激減しているにもかかわらず、碓氷製糸はなぜ稼働し続けていられるのか?それは、群馬県はわずかながらも養蚕農家が残り、蚕の飼育を守り続けている地盤があるから。そのうえで、相場に左右されない群馬オリジナルの蚕の品種を扱っていることも理由の一つ。また碓氷製糸は多品種の糸を小ロットで製造できることも強みだ。さまざまな太さの生糸が作れて、顧客の要望にきめ細かく応えられるという。それには高性能な機械と、良き技術者の存在なくしては成り立たない。
「いい糸を作り続けることが事業の継続に繋がると信じています。もしも、この場所が無くなってしまったら、養蚕農家さんも廃業してしまうわけですから責任は重大です」と語る安藤さん。
碓氷製糸の目指すべき未来とは

しかし「5年後、10年後を見据えると、生糸を作るだけでは立ちゆかなくなる」と危機感を抱き、収益の柱となるものを模索している。近年は生糸を利用したオリジナル製品の開発に力を注ぎ、肌着や靴下、ボディタオルなどの身近な絹製品や、生糸から抽出するシルクタンパクを使用したスキンケア用品を販売している。
高品質な絹製品を提供し続けることで、衰退傾向にある日本の蚕糸業において貴重な存在となっている碓氷製糸。今後は、国内外でのニーズに応えるための製品開発や、伝統技術を活かしたブランドの強化、他分野との連携などを通じ、新たな技術と柔軟な発想で伝統産業である製糸業の未来を切り拓いていく。