愛媛県と広島県をつなぐ「しまなみ海道」に浮かぶ島のひとつ、今治市大三島(おおみしま)。こちらに工場を構える「伯方(はかた)塩業株式会社」は、印象的なサウンドロゴのCMで広く知られる「伯方の塩」を製造する塩メーカーだ。創業52年、その歩みは瀬戸内海の塩業と日本の塩の歴史とともに刻まれてきた。
「伯方の塩」の誕生

「伯方の塩」誕生の地は、同じく今治市の島しょ部(とうしょぶ)に位置する伯方島(はかたじま)。しまなみ海道沿いにあるこの島は、愛媛県で最後まで塩田が残った地であり、日本人が慣れ親しんだ塩田を利用してつくる塩を守るために消費者運動が立ち上がった歴史がある。
瀬戸内海沿岸は年間を通して降雨日数が少なく、潮の干満差が大きい。この自然の力を利用し、満潮時に海水を引き入れ、敷き詰めた砂が海水を上部まで引き上げる入浜(いりはま)式塩田を利用した製塩法が適していたことから、塩の生産が盛んに行われてきた。1953年頃には、より効率的な製塩法として、土地を立体的に利用し、季節や昼夜を問わず塩つくりができる「流下式枝条架併用(りゅうかしきしじょうかへいよう)塩田」が登場。1957年までには伯方島のすべての塩田が「入浜式塩田」から「流下式枝条架併用塩田」に転換された。
消費者運動から生まれた「伯方の塩」

昭和初期、全国の塩生産量のおよそ9割が、愛媛や香川、広島などを含む瀬戸内海地域に集中していたと言われている。そのうち伯方島ではピーク時に年間約2万4千トンもの塩が生産されていた。これは全国の年間塩生産量の約2〜3%にあたり、小さな島でこれほどの割合を占めていたことからも、塩業がいかに伯方島の主要産業であったかがうかがえる。
日本では1905年に「塩専売法」が施行されて以来、塩はたばこや酒と同様に国の専売品とされ、製造や販売は国の管理下に置かれていた。高度経済成長期を迎え、農耕的な製塩から工業的な大量生産へ移行するため、1971年に「塩業近代化臨時措置法」を成立させ、イオン交換膜を利用した製塩法以外は原則禁止とした。結果、日本の伝統的な塩田は姿を消すこととなり、かつて何十ヘクタールにも広がっていた伯方島の「流下式枝条架併用塩田」の風景も、歴史の中に埋もれることとなった。
しかしこの製法で作られる塩は工業用や化学製品向けにも使われており、食用としての安全性が十分に確保されているとは言えなかった。こうした安全性への不安から、「自然塩の存続」を願う消費者運動が始まる。
「食物は自然に近い方が良い。化学薬品を使い、化学薬品のように純化された過精製のイオン交換膜製塩を食用に強制する必要は全くない。人畜への安全性も確かめられていない状態で世界に先駆けて急ぐ必要はない」、「生命維持に関わる基本食料である塩を選択する自由を奪うのは基本的人権の侵害である」この2つの趣旨を訴えた「自然塩存続運動」は、故・菅本フジ子さん(日本自然塩普及会永世会長)を中心に、消費者であった松山市在住の有志たちが展開。全国に広まり、各地の消費者・団体の協力によって短期間に5万人の署名を集め、国を動かす大きな運動となった。
結果的には塩田を残すという願いは叶わなかったが、生産上の制約があるなかで塩を作ることが許可され、厳しい条件のもと独自の製法で安全に味わえる食用塩を生み出した。1973年、「伯方の塩」の誕生である。
厳しい条件で安全・安心な塩づくりを

「伯方の塩」の塩づくりは、海水を天日で蒸発させて塩を得る天日塩とは異なり、メキシコやオーストラリアから輸入した天日塩田塩を瀬戸内海の海水に完全に溶かし、ろ過して清浄な濃い塩水をつくり(溶解工程)、釜で煮詰めて塩を再結晶させるという方法を採用している。 この溶解工程は、塩に海水のにがり成分を含ませるためにも重要だ。海外の大規模な塩田で2〜3年かけて生産される天日塩田塩は工業用塩であるため、意図的ににがり成分が取り除かれている。そこで瀬戸内海の海水に溶かすことでにがりを含ませ、ほどよく残すことで塩かどのない、まろやかな塩へと仕上げていく。この製法は1973年、国からイオン交換膜製塩以外で許されたもので、海水から直接塩を作ることが制限された時代に生まれた、やや特殊な工程である。しかしながら、製造コストの抑制や安定した品質・価格の実現といった点では理にかなっており、改良を重ねながら現在も続けられている。 効率性を重視した工業的な製法とは異なる、伝統と工夫の詰まった塩づくりだ。
輸入した天日塩田塩を瀬戸内海の海水で溶解して作った濃い塩水は、釜でじっくりと煮詰め、塩の結晶となる。結晶化した塩は、余分な水分を取り除いた後で、数日間工場内で自然乾燥させ、最後に異物を徹底的に取り除く工程を経て、「伯方の塩」が完成する。
にがりをほどよく残した塩

「伯方の塩」の特徴をあげるとするなら、「にがりをほどよく残した塩」だと、代表の石丸一三さんは話す。塩化ナトリウムのみで構成された塩は味が尖りがちで、舌に鋭く響く「塩角(しおかど)」と呼ばれる感覚を与えやすい。そこで重要になるのが塩化マグネシウムなどを含む、にがりの適度な残存だ。このにがりがほどよく含まれていることで、塩味に奥行きが生まれ、まろやかな風味へと仕上がる。ただし、にがりが多すぎると苦味が強く出てしまうため、量のバランスはとても繊細だ。
伯方の塩では、ほどよくにがりを残すために、釜で煮詰めた塩を数日間自然乾燥させる。機械などを用いて強制的に脱水してしまうと、結晶の周りに付着したにがり成分が水分と一緒に取り除かれるためだ。また乾燥中にゆっくりと滴下していく、液体状のにがり成分が均一に結晶に広がるように、包装前には塩をほぐしながら混ぜる作業も行っている。
目指すのは、昔ながらの塩

1997年、新たな法律により日本の海水から自由に塩を作ることが可能となり、全国でさまざまな製塩法を用いた個性豊かな塩が生まれるようになる。この時、伯方塩業が挑戦したのは、かつての伯方島の風景だった「流下式枝条架併用塩田(りゅうかしきしじょうかへいようえんでん)」を利用した製塩法の再現だ。
流下式枝条架併用塩田は、砂利を敷き詰めたゆるい傾斜のある地盤に海水を流し、循環させながら太陽の熱で水分を蒸発させ濃い塩水を作り上げる「流下盤」と竹の枝を組んだ立体的な施設の上から海水を滴り落とし、風の力によって塩分濃度を高める「枝条架」で構成されている。自然の力を利用しているため、雨が降ると作業は一時中断されるが、風があれば、「枝条架」で昼夜を問わず稼働でき、塩分濃度を上げることが可能となる。こうしてできた濃い塩水を平釜で煮詰めて塩をつくっている。自然の影響を受けながら作られるこの製塩法は、まさに自然と調和した方法だ。
技術の伝承として「流下式枝条架併用塩田」を見直した結果、「伯方の塩」が目指していた昔ながらの塩の味を条件下のなかでも再現できていたこと、現代においても理にかなった製塩法であることが改めて確認できた。
技術の伝承とシンボル

伯方塩業は2025年に創業52年を迎える。塩メーカーの多くは「塩専売法」廃止後に創業しており、50年以上の歴史を持つ塩メーカーは全国でも約10社程度と非常に少ない。
伯方塩業の塩に対する考えは創業以来、一貫して変わらない。「塩は人間が生きていくために欠かせないものであり、水や空気と同じように代替品がない。単なる調味料ではなく『基本食料』だ。そして塩の健康最適を追求し、できるだけ多くの人々に、できるだけ安く提供する」という目標を掲げている。日本の製塩の歴史を深く理解しているメーカーだからこそ、塩の重要性を十分に認識している。今後も消費者に寄り添いながら、日本の塩の歴史とともに歩み続ける。