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	<title>CRAFT - NIHONMONO</title>
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	<description>「にほん」の「ほんもの」を巡る旅マガジン</description>
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		<title>土佐備長炭の技術を守り、仲間を増やし、原料の植林に邁進する炭の達人「合同会社 炭の森生」／高知県室戸市</title>
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		<pubDate>Mon, 13 Jul 2026 09:58:52 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-085120.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>高知県は備長炭日本一の生産量を誇る。その中心が室戸市。伐りたてのウバメガシを原料とし、20日間ほどの工程を経て焼き上げられる土佐備長炭。その第一人者の製炭士は、後継者の育成、材料の確保、そして環境保全という室戸（むろと） [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-085120.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>高知県は備長炭日本一の生産量を誇る。その中心が室戸市。伐りたてのウバメガシを原料とし、20日間ほどの工程を経て焼き上げられる土佐備長炭。その第一人者の製炭士は、後継者の育成、材料の確保、そして環境保全という室戸（むろと）の未来を見据えた活動に尽力している。</p>



<h2 class="wp-block-heading">炭の宝を育む、室戸の風土</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-01.jpg" alt="" class="wp-image-54836" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-01.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-01-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-01-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>かつては大型台風が再々上陸することで有名になった高知県東部、室戸市。海岸エリアは漁業の町として栄える一方、その山奥深くには、今も静かに煙をあげる土佐備長炭の窯が点在している。そのひとつに、47年以上にわたり炭を焼き続けてきた製炭士、森本生長（せいちょう）さんの仕事場がある。</p>



<p>森本さんが土佐備長炭を焼く窯場は、室戸市を流れる清らかな羽根（はね）川の上流に位置する。土佐における白炭（木炭）づくりの歴史は江戸時代まで遡る。ここ室戸は、海岸沿いや岩場といった厳しい環境で育つウバメガシをはじめ、アラカシやウラジロガシなど、重くて堅い木が自生する土地。明治時代、紀州の炭焼き職人が羽根の地に移り住んだことで、その高度な技術が伝承された。地元の職人たちはさらなる窯の改良に励み、やがて室戸は備長炭の産地として全国から注目を集めることとなる。</p>



<h3 class="wp-block-heading">土窯の研究は一生終わらない</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-083908.jpg" alt="" class="wp-image-54837" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-083908.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-083908-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-083908-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>2017年（公社）国土緑化推進機構より「森の名手・名人」の選定を受けるなど、今や製炭業界で著名な森本さんも、10代の頃はパイロットを志していた。高校卒業後は航空電子系の専門学校で学ぶが、途中でその夢を断念。30歳まで東京でサラリーマン生活を送った後、将来を見据えて帰郷する。</p>



<p>当時は米づくりや畜産を営む傍ら、山でウバメガシなどを伐り出し、製紙会社へパルプの原材料用として売っていたという。転機になったのは、地元で唯一備長炭をつくっていた先輩からの勧めだった。「これをパルプに持っていくのはもったいない、私が教えるから炭を焼いてみないか」との誘い。それが備長炭との出合いになった。</p>



<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;昭和30年代に入って、家電用品等の発達により木炭産業は急速に斜陽化へと追い込まれた。そのため山から離れる製炭士が多くいた。森本さんは山に残されていた土窯を修復し、先輩のアドバイスを仰ぎながら試行錯誤を重ねた。素人ながらもそこそこ出来の良い炭が焼け、「父親もビックリしたんです」と森本さんは笑う。</p>



<p>「同じ工程を続けていたのに、次第に炭の出来が悪くなっていきました。それで調べてみると、窯の壁に亀裂が入っており、熱が逃げていたんです。それを修理して再び焼いてみたところ、見違えるような上等な炭になりました。それがきっかけで窯そのものに興味を持ち、本格的な勉強を始めました」。</p>



<p>当時は周辺に炭焼きのベテランが多く、天井の形ひとつとっても、徳利（とっくり）型を得意とする人や、円形を得意とする人など、それぞれの技を参考にしていったという。森本さんは「窯底の熱を蓄える保温力、窯の気密性、そして強度。この３点が窯づくりにおいて最も肝心な要素だ」と語る。</p>



<h2 class="wp-block-heading">灼熱の窯。その熱を全身で受けて立つ</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others07.jpg" alt="" class="wp-image-54838" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others07.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others07-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others07-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>黒炭と白炭は、原料の木というより「焼き方と仕上げ方」の違いで分かれる。土佐備長炭が分類される白炭は、1,000度を超える高温で一気に炭化させ、窯から赤熱したまま掻き出して土と灰をかけて急冷する。この急冷でできる表面の白い灰がその名の由来であり、硬く締まって叩くと澄んだ金属音を響かせ、火力が強く長時間燃え続ける。対する黒炭は、比較的低い温度でじっくり焼き、窯を密閉して炭化させたあとそのまま窯内で冷ます。仕上がりは黒くやわらかで、火付きがよく扱いやすいため、飲食店などの専門店で愛用される白炭に比べ、レジャーや家庭用などに好んで使用される傾向がある。</p>



<p>白炭の代表格とも言える備長炭において、室戸が日本一の産地となった背景には、いくつもの条件が重なっている。原木に最適なウバメガシをはじめとするカシ類が豊富に自生していたこと、明治40年(1907年)、四国遍路で室戸を訪れた紀州の炭焼き職人・植野蔵次が、当時の土佐の未熟な窯の欠点を見抜き、紀州備長炭の製炭技術を伝授したこと、土佐の風土に合わせて窯を改良し、大きな窯で良質な炭を量産する技術が根づいたこと、など。</p>



<p>そして、何より森本さんらによる後継者育成と植林を通じた、持続可能な生産体制があったことが非常に大きい。</p>



<p>では、その土佐備長炭はどのようにして作られるのか。まず森本さんは山からウバメガシを伐採し、窯へ原木を投げ入れるように、横に並べていく。その際、あえて重なる部分を設け、空気の道をつくる。そこから火を入れて加熱し、一週間ほど蒸し込んで原木の水分を飛ばしていく。森本さんは、この段階の管理が重要だという。原木の含水率が高いままだと、後からひび割れが生じ、質の良い炭にならないからだ。水分の多い初期段階では煙突から白い煙が出るが、乾燥が進むにつれて次第に透明へと変化する。熱気に耐えながら煙に手を当て、湿るとまだで、肌触りがサラっとした状態になれば、乾燥が進んだ合図である。</p>



<p>乾燥が終わると密閉し、ごく少量の空気を送り込んで蒸し焼きにすることで炭化させる。この作業は「ねらし（精錬）」と呼ばれ、炭に含まれる不純物を燃やし切る重要な工程だ。炭化が完了し、窯の口を開けて空気を送り込むと、内部は1,000度を超える高温を生み、高炉の鉄のように真っ赤になった木を掻き出し、土と灰をまぜた「素灰（すばい）」をかけ急速に消火、急冷することで、炭の表面が白っぽくなる。</p>



<p>世界にも類がない硬質の炭は、打ち合わせると、キーンと金属のような、美しく澄んだ音を響かせる。</p>



<p>窯入れから窯出しまで、20日前後を要する。焼きあがった炭は、その形状や太さに応じて選別され、サイズを揃えたのち、除湿室に入れて、水分が戻らないように管理する。</p>



<h2 class="wp-block-heading">食文化を支える世界最高峰の炭</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others11.jpg" alt="" class="wp-image-54839" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others11.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others11-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others11-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「見た目も綺麗で、長時間燃焼するのが良い備長炭」と森本さんはまっすぐに見つめて話す。質の高い炭になれば、３時間でも４時間でも燃焼し続ける。だが、完璧な備長炭を作ることは難しいと正直に明かす。炭化させる「ねらし」をかけすぎると、見た目は美しい炭になるが、燃焼成分が抜けすぎて火力が落ちてしまう。「その微妙な加減を攻めなきゃいけない」という言葉には、長年の経験に裏打ちされた炭焼きの奥深さが宿る。そして、「この備長炭は食文化にも貢献している、世界最高峰の炭だから」と少年のように目を輝かせる。</p>



<p>備長炭は長時間燃焼するだけでなく、煙が出ないため、食材に余計な匂いがつかず素材本来の味を活かすことができる。繊細な味を求める料亭やうなぎ店、焼き鳥店などからの需要は絶えず、常に品不足の状態だ。問屋からの催促に追われるなか、今年も２か月に３回のペースで窯入れを行うという。</p>



<h3 class="wp-block-heading">後継者は大歓迎</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others05.jpg" alt="" class="wp-image-54840" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others05.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others05-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-b-others05-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>もちろん、これまですべて順調だったわけではない。昭和後期から安価な中国産の備長炭が出回り始め、国内産は大打撃を受けた。まだ若手だった森本さんの炭も、売れない時期が続いたという。その後2000年代になって中国が木炭の輸出を禁止したが、この20年足らずの間に、60人程いた製炭士は、20人ほどまでに減り、全体の3分の２が窯を離れた。</p>



<p>現在は生産量に限りがある一方、国内だけでなく海外からも引き合いがあるため、備長炭不足の状況が続いている。森本さんは「備長炭を仕事にしたい若者がいれば大歓迎」と、仲間を増やしたいと考えた。新規参入者が一歩を踏み出しやすいよう、収入を得やすい省力窯の導入や機械化を推進してきた。また、室戸市長に掛け合い、2011年には後継者育成制度をつくり、毎年３人ほど研修生を受け入れた。彼らが独立した後も、原料となるウバメガシの調達を含め、フォローを欠かさない。</p>



<p>すでに30人以上が森本さんから学び、そのうち10人程が独立して、高知県内外に窯を構えている。現在室戸市には30人程の製炭士がいる。</p>



<h2 class="wp-block-heading"><strong>山の厳しさを実感する</strong></h2>



<p>森本さんの窯から車で10分ほど走ると、所有する山がある。見るからに険しい山の頂上まで行けるよう、自ら重機を操ってジグザグに道を切り拓き、４駆の軽トラなど運搬車が登れるよう整備したという。皆が頂上の奥にあるウバメガシをチェーンソーで伐り出す。運搬車が入れない場所では、ワイヤーを使って吊りあげながら搬出する。</p>



<h3 class="wp-block-heading">土佐備長炭の未来を、つなぐ</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-104748.jpg" alt="" class="wp-image-54841" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-104748.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-104748-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-104748-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>ウバメガシの親株の枝や幹の一部に傷をつけて発根させた「取り木」を植えるほか、森林組合などに委託して苗木の植樹もしている。製炭士1人が年間で使用するウバメガシは1ha（ヘクタール）約5000本で、40haあれば生育から伐採までのサイクルを安定させることができる。</p>



<p>その理由として、備長炭の炭材であるウバメガシは、伐っても切り株から芽吹く「萌芽（ほうが）更新」で、約20年をかけて再生していく。40haをその周期に合わせて区画ごとに順に伐っていけば、一巡する頃には最初の区画がじゅうぶんに育つため、植え直しも開墾も要らず、製炭士1人が仕事を続けられる環境を維持できるというわけだ。</p>



<p>「昨年は4万本、8ha植えたけれど、あと100haぐらいは植えんといかん」と話し、案内してくれたのは苗木ポットが並ぶ場所だった。「これはウバメガシ、こっちはウラジロガシ、クヌギ。この３種類を中心に植えようと思っています。ウラジロガシは薬にも使えるし、良い炭にもなる。クヌギは茶道で使われる菊炭に。どんぐりの実は動物の餌になる。自然環境を守るならやっぱり広葉樹のほうがいい。根を張って土砂崩れを防ぐし、木を伐っても元へ戻るしね」と話す。</p>



<h2 class="wp-block-heading">無形文化財登録、その先の夢へ</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-110343.jpg" alt="" class="wp-image-54842" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-110343.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-110343-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/22morimoto-110343-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>３回目の挑戦となるが、県と製炭士たちは土佐備長炭の「無形文化財登録」を目指している。森本さんは「技術の保存と品質の安定。土佐備長炭の名を冠する以上は、一定の品質を守りたい」と語る。さらに「無形文化財に指定されれば、世界遺産を目指せそうな気がする」と笑みをこぼす。「地域全体で原料のウバメガシを半永久的に持続可能にし、産業を成り立たせていく。二酸化炭素の排出を抑え、環境も守る。これほどの循環モデルは他にないと感じています」と、その想いを語った。</p>



<p>後継者育成、原料確保、そして環境保全。この3つの課題に取り組みながら、土佐備長炭と地域の未来を切り拓くベテラン製炭士の歩みは、止まることを知らない。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54827/">土佐備長炭の技術を守り、仲間を増やし、原料の植林に邁進する炭の達人「合同会社 炭の森生」／高知県室戸市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>鍛えた鉄に、暮らしの美を宿す。「鍛冶工房弘光」11代目･小藤宗相さん／島根県安来市</title>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 13 Jul 2026 09:16:20 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[たたら製鉄]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00798_142A2470.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>日本古来の製鉄法「たたら製鉄」の文化が色濃く残る島根県東部。安来市広瀬町には、江戸時代後期から続く鍛冶工房がある。刀剣鍛錬の技を礎に、いま手がけるのは花器やフライパンなど現代の暮らしに寄り添う道具。11代目･小藤宗相（こ [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00798_142A2470.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>日本古来の製鉄法「たたら製鉄」の文化が色濃く残る島根県東部。安来市広瀬町には、江戸時代後期から続く鍛冶工房がある。刀剣鍛錬の技を礎に、いま手がけるのは花器やフライパンなど現代の暮らしに寄り添う道具。11代目･小藤宗相（ことうしゅうすけ）さんは、冷たいはずの鉄に温もりが宿る理由を、手仕事を通じて示し続けている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">たたらの系譜を引く、安来の鍛冶</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00612_142A9665.jpg" alt="" class="wp-image-54787" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00612_142A9665.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00612_142A9665-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00612_142A9665-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>古くから日本有数の鉄の産地として知られてきた島根県。砂鉄と木炭から鉄を生み出す「たたら製鉄」は、今なお国の選定保存技術として守られている。江戸時代に最盛期を迎えたこの技術は、日本刀の材料である「玉鋼（たまはがね）」を生み出す唯一の製法として知られ、中国山地一帯を中心に発展を遂げた。</p>



<p>鍛冶工房弘光のルーツは江戸時代後期。初代から三代目は、たたら製鉄に携わる「たたら師」として活動。その後の時代の変化のなかで打刃物や農具、日本刀鍛錬へと仕事のかたちを変えながら、10代にわたって鍛冶の火を守ってきた。</p>



<p>かつては包丁や農耕具の製造･修理を担い、地域の暮らしに欠かせない存在だった鍛冶職人。しかし戦後、機械化や大量生産が進み、農具や刃物を「修理しながら長く使う」といった暮らしは少しずつ姿を消していく。安価な製品が手軽に手に入るようになり、各地の鍛冶屋は減少。製鉄の仕事を続けるだけでも難しい時代になった。そんな中でも鍛冶工房弘光は、時代に合った鉄工芸品をつくり続け、その伝統を現代に伝えている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">作品を届ける喜びを知り、鉄工芸の道へ</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00573_142A9567-1.jpg" alt="" class="wp-image-54788" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00573_142A9567-1.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00573_142A9567-1-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00573_142A9567-1-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>鍛冶工房弘光11代目の小藤宗相さん。最初から一直線に鍛冶の道へ進んだわけではなく、大学卒業後は東京の企業に勤務し、その後は島根県内の美術館でも働いていた。鍛冶の道へ進む転機となったのは、家業の展示会を手伝った時のこと。来場者と直接言葉を交わし、自分たちが手掛けた品が誰かの日常へ渡っていく瞬間に触れるうち、つくる喜びだけでなく、使い手へ届く喜びの大きさを実感した。「いつかは継がなければ」とぼんやり考えていた家業が、自分の仕事として輪郭を持ちはじめた瞬間だったと語る。<br></p>



<h3 class="wp-block-heading">細部まで手仕事にこだわり、鉄に温もりを宿す</h3>



<p>現在の工房には、10代目の父･洋也さんを含め、４人の職人が立つ。手掛けているのは、刀剣鍛錬の技法を生かした燭台、花器、行灯、火廻り品といった工芸品。日本刀づくりと同じように、鉄を高温で熱し、鎚（つち）で何度も打ちながら不純物を取り除き、強度と粘りを引き出していく。わずかな温度差や打つ力の加減によって表情が変わるため、職人は炎の色や鉄の状態を見極めながら作業を進める。つくるものは変わっても、鉄を打ち鍛え、用の美へと昇華させる仕事は初代から変わっていない。</p>



<h3 class="wp-block-heading">受け継がれる伝統の鉄加工「鍛造」</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00655_142A9584.jpg" alt="" class="wp-image-54789" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00655_142A9584.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00655_142A9584-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00655_142A9584-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>彼らのものづくりの核にあるのは、木炭の火で鉄を熱し、鎚（つち）で打って成形する昔ながらの加工法「鍛造（たんぞう）」。鉄を液体化して型に流し込む鋳造（ちゅうぞう）、圧力をかけて成形する機械加工などが一般化している今、「鍛造」は手間がかかり、大量生産には向かない。しかし打ち鍛えることで強度と粘りが増し、打ち目や揺らぎによって一点一点の表情を豊かに表現できる。<br></p>



<h2 class="wp-block-heading">鉄の状態は肌感覚で見極める</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00638_142A0570.jpg" alt="" class="wp-image-54790" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00638_142A0570.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00638_142A0570-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00638_142A0570-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p><br>鉄は、熱したばかりの柔らかいうちしか動かない。作業できるのは、およそ800〜1000℃の間。熱しすぎれば鉄が溶けてしまい、熱する時間が短ければ叩いても成形できない。だから何度も炉に入れ、何度も引き出し、叩き、また熱する。その反復作業を繰り返す。</p>



<p>熱している間は、次はどこを叩き、どう曲げるかをイメージする。長年培った感覚をもとに、鉄の状態を見極める。引き上げるタイミングは最も重要で、職人の経験が試される局面だという。</p>



<h3 class="wp-block-heading">唯一無二の品に仕上がる、手仕事のおもしろさ</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00584__H6A6814.jpg" alt="" class="wp-image-54791" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00584__H6A6814.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00584__H6A6814-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00584__H6A6814-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>伝統の鉄加工「鍛造」によって作られた品は、ひとつとして同じものが存在しない。しなやかな鉄の輪が印象的な「置き風鈴」は、 鉄の厚みや曲線のわずかな違いによって、同じ品であってもそれぞれ異なる響きを持つ。手仕事ならではの微細な揺らぎが音色に個性を与え、均一な工業製品にはない豊かな表情を生み出している。&nbsp;</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00591_142A2451.jpg" alt="" class="wp-image-54792" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00591_142A2451.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00591_142A2451-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00591_142A2451-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「鍛月（たんげつ）」と名付けられた鉄のフライパン。熱伝導に優れた鉄の性質を生かし、食材の中をふっくらと、表面は香ばしく焼き上げる。薬品などによる錆止めなどの処理を施さず、使い込むほどに変化する鉄の表情を楽しめる設計。鍛えることで生み出される凹凸の模様がかすかに残り、そのまま鉄の表情となって現れる。</p>



<h3 class="wp-block-heading">売る力もまた、手仕事の一部</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00597__H6A6487.jpg" alt="" class="wp-image-54793" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00597__H6A6487.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00597__H6A6487-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00597__H6A6487-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>11代目の役割は、ものづくりだけではない。工房に併設されたギャラリーでは、実際に作品を手に取った来訪者との会話から、新たな受注や制作が始まることも多いという。顧客と対話を重ねながら、求められている用途や空間を読み取り、デッサンを起こして提案。異業種で培った視点は、作品の売り方だけでなく、ものづくりそのものにも生きている。 </p>



<p>また県外、都内の百貨店やギャラリーでも月に1〜2回ほど展示販売を実施しているほか、近年はパリで開かれる見本市「メゾン･エ･オブジェ」をはじめ、海外への出展も重ねている。鉄の工芸品は、木工やガラスのように一見して親しみやすい素材ではないかもしれない。それでも繰り返し足を運ぶリピーターやコレクターが少なくないのは、手仕事作品そのものの力に加え、使い手との関係を丁寧に育ててきたからだろう。</p>



<h2 class="wp-block-heading">11代目が描く、鍛冶工房弘光の未来</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00681__H6A6545.jpg" alt="" class="wp-image-54784" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00681__H6A6545.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00681__H6A6545-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/nih2_00681__H6A6545-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>宗相さんが次に見据えているのが、炭焼きへの挑戦。鍛冶に欠かせない炭は、原材料や加熱の持続力によって品質がさまざま。自ら炭を焼くことで、良質な炭を安定して確保しつつ、素材の源流からものづくりを完結させたいという意志がある。宗相さんの飽くなき探究心が、鍛冶工房をまた新たなステージへ押し上げようとしている。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54782/">鍛えた鉄に、暮らしの美を宿す。「鍛冶工房弘光」11代目･小藤宗相さん／島根県安来市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>やんばるの自然の中で俳句のように生まれる器。「螢窯」山上學さん／沖縄県大宜味村</title>
		<link>https://nihonmono.jp/article/54769/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 13 Jul 2026 08:37:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新着記事]]></category>
		<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[やんばる焼き]]></category>
		<category><![CDATA[ギャラリーTATI]]></category>
		<category><![CDATA[いぎみてぃぐま]]></category>
		<category><![CDATA[陶芸]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-004.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「小学生の頃、土器のかけらを見つけては組み合わせていくのが楽しかったんです。それがルーツ」。そう話すのは、沖縄県大宜味村田嘉里（たかざと）で「螢窯（じんじんよう）」を営む山上學さん。日本各地を巡り、やんばるの山の麓で見つ [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54769/">やんばるの自然の中で俳句のように生まれる器。「螢窯」山上學さん／沖縄県大宜味村</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-004.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「小学生の頃、土器のかけらを見つけては組み合わせていくのが楽しかったんです。それがルーツ」。そう話すのは、沖縄県大宜味村田嘉里（たかざと）で「螢窯（じんじんよう）」を営む山上學さん。日本各地を巡り、やんばるの山の麓で見つけた「自分のかたち」とは。</p>



<h2 class="wp-block-heading">探し続けた場所</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-003.jpg" alt="" class="wp-image-54771" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-003.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-003-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-003-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>沖縄自動車道の北の終着点許田ICからさらに北へ車で45分ほどの“やんばる”と呼ばれる自然豊かな場所に、山上さんの工房「螢窯」と併設の「ギャラリーTATI」はある。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-018.jpg" alt="" class="wp-image-54772" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-018.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-018-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-018-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>大阪府出身の山上さんが陶芸家を志すようになったのは、幼い頃に家の近所で土器のかけらを見つけたことがきっかけだった。その原体験を境に土や焼き物への関心を深め、進路として陶芸の道を選ぶようになった。</p>



<p>少年時代の山上さんにとって、土器拾いは自転車や野球と同じくらい夢中になれる遊びだった。万博開発に沸く造成地を掘り起こすたび、土の中から古い土器が顔を出す。はるか昔に人の手が触れた痕跡が現れる瞬間に、胸が高鳴った。高校に上がる頃には博物館で世界各地の土器を眺めるのが習いとなり、「陶芸家とはどんな仕事なのか」と漠然と思い描くようになる。</p>



<p>打ち込んでいた野球での進学も考えたが、どこかで限界を感じていたし、美術大学という道もあったものの、受験デッサンに明け暮れる世界は自分には合わないと感じていた。そんなとき、美術に明るい父の縁で一人の陶芸家を訪ねると、「美大を出なくても陶芸家にはなれる」と背中を押された。こうして山上さんは、必要な技だけを求めて産地を渡り歩く道を選ぶ。愛知･瀬戸の窯業訓練校でろくろを学び、京都で釉薬と清水焼を、さらにウィーン工房の流れを汲む学校で研鑽を積んだ。</p>



<p>そうして腕を磨いた山上さんは、茨城県にある笠間焼の製陶所に勤務し、27歳で独立。その後、栃木県の焼き物の産地である益子を経てこの地に移り住んだのは、2004年のこと。北海道から九州･沖縄まで焼き物の産地を巡り、45歳の頃にようやく辿り着いた場所だった。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-022.jpg" alt="" class="wp-image-54773" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-022.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-022-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-022-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>沖縄の焼き物「やちむん」といえば、厚みのある形状や躍動感のある絵柄が特徴で、中でも那覇市壺屋で古くから作られる「壺屋焼」はやちむんの代名詞。「壺屋焼は独自の伝統的な作り方をするので、興味はあったけど」。そう話す山上さんがやんばるまでやって来たのは、伝統的なもの作りではなく自分のオリジナルのもの作りを目指したから。自然や光のトーン、独自の文化、部落ごとの風習や行事やに魅了され、やんばるの地でのもの作りがはじまった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">環境がものを作っていく</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-008.jpg" alt="" class="wp-image-54774" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-008.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-008-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-008-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>それまで笠間焼や益子焼きなどに携わってきた山上さんも沖縄に来た当初は、益子焼きやいわゆるやちむんをイメージさせるオーソドックスな作品を作っていた。「でも、こっちにきたらグリーンとか海の色を再現したくなったんです。“用の美”の逆があってもいいんじゃないかと思って」と、海の美しさや、きれいな夕日など感じたものを“用”（使い勝手や実用性）に落とし込むように、作品に変化が生まれた。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-038.jpg" alt="" class="wp-image-54775" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-038.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-038-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-038-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「環境がものを作っていくんだと思うんです」。その言葉には、かつて松尾芭蕉が日本各地の美しい風景や名所を旅して歩き、その地の自然を感じ俳句に残したのと相通じるものがある。「陶芸作家として技術ばかりを極めるのではなく、自然を見て感じたものを表現するための技術を極めていく。それがたまらない面白さですし、それこそが健全なもののつくり方だと思います」。自然を感じ、かたちに残す、山上さんの見つけたもの作りの姿だった。</p>



<h3 class="wp-block-heading">縄文とサンゴの掛け合わせ</h3>



<p>山上さんの器作りは、海へ貝やサンゴのかけらをとりにいくところからはじまる。そして沖縄の土と美濃や信楽などいくつかの土をオリジナルの配合でブレンドした土でベースとなる器を作り、その表面に拾い集めた大小のサンゴのかけらをおしつけるように模様を付けていく。それはまるで縄文土器のような作り方だ。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-053.jpg" alt="" class="wp-image-54776" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-053.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-053-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-053-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「縄文とサンゴを掛け合わせたらおもしろいと思ったんです」。縄文土器は縄を編み、土器の表面に縄をおしつけていくことで紋様を付ける。また縄で抑えることによって土を締め、割れにくくする効果もあるのだという。山上さんは沖縄の土だけで作るよりも厚みを抑えたベースの器に、縄ではなく貝やサンゴを使ってひとつずつ模様をつけ、締めていく。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-048.jpg" alt="" class="wp-image-54777" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-048.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-048-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-048-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>制作している時にイメージしているのは海の中。サンゴによって生まれたランダムな模様が、瞬く間に表情を変える自然界の美しさと儚さを映しだす。また、そこに金属製の細い筒を使って細かなバブル模様を感覚的に付け加えていく。少しだけ人工的な道具を使うことによって、まるで化学調味料のようによりリアルに作用する。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-041.jpg" alt="" class="wp-image-54778" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-041.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-041-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-041-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>そして最後に、模様の一つひとつに筆で顔料を塗っていく。焼き上がりを想像しながら色の置き方や濃淡を変え、そうして山上さんの作品ができあがる。</p>



<h3 class="wp-block-heading">やんばる焼き</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-067.jpg" alt="" class="wp-image-54779" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-067.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-067-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-067-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>やんばるの地に移り住み、作品を作るようになって20年あまり。「やっと形になってきた」と話す山上さんの作品は沖縄の美しい海を想起させ、ギャラリーTATIや同ギャラリーのある大宜味村にて年に一回開催される「いぎみてぃぐま」などの工芸市で山上さんの作品に触れた旅行者にも反響が大きい。「人に喜んでもらうのは嬉しいことだけれど、喜ばせるために作るのではなくて、自分が喜ぶ意識で作っていると人も喜んでくれると思う」。最近では、空洞部分に陶の玉を入れ、音が鳴るように造形したビアカップなど、実用性にプラスアルファで遊びの要素を取り入れた作品も生み出した。これらはまだ試作段階ではあるが周囲からの評判も良く、今後シリーズ化していきたいと考えている。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-006.jpg" alt="" class="wp-image-54780" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-006.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-006-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/07/tati-006-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>これまでも沖縄の中で、伝統的なやちむんとは少し違う作品を生み出すことによって注目をされることが多かった山上さん。各地の土と向き合い、炎と対話しながら積み重ねてきた歳月は、いまこの地に深く根を張ろうとしている。</p>



<p>「これまでに日本各地で経験してきた焼き物の集大成として、この地で&#8221;やんばる焼き&#8221;を形にできたらいいなと思っています。これからまだまだやりたいことはあるんです」。</p>



<p>やんばるの森が育む土、沖縄の光と風。それらすべてを器のかたちに宿らせようとする山上さんの仕事は、まだ途中だ。その先に生まれるものを、ギャラリーTATIはこれからも静かに、しかし確かに発信し続けていく。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54769/">やんばるの自然の中で俳句のように生まれる器。「螢窯」山上學さん／沖縄県大宜味村</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>350年もの伝統を刃物作りに受け継ぐ「二唐刃物鍛造所」／青森県弘前市</title>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 29 May 2026 05:02:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[包丁]]></category>
		<category><![CDATA[よし久]]></category>
		<category><![CDATA[二唐ブランド]]></category>
		<category><![CDATA[オピネルコラボ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_121.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>藩政時代100軒を超える鍛冶屋があったとされる弘前市のなかでも、二唐家は弘前藩から作刀を命じられて以来、350年の伝統を受け継ぐ鍛冶の「名門」として知られている。「良品は声なくして人を呼ぶ」を銘訓とした二唐（にがら）家の [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_121.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>藩政時代100軒を超える鍛冶屋があったとされる弘前市のなかでも、二唐家は弘前藩から作刀を命じられて以来、350年の伝統を受け継ぐ鍛冶の「名門」として知られている。「良品は声なくして人を呼ぶ」を銘訓とした二唐（にがら）家の精神は今も刃物作りに生かされている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">刀鍛冶から農具･漁具、そして包丁作りへ</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_120.jpg" alt="" class="wp-image-54584" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_120.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_120-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_120-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>日本刀は主に鉄よりも純度の高い玉鋼（たまはがね）で作られる。西洋の剣は「叩いて切る」のに対し、日本の刀は「切り裂く」という違いがある。その日本刀の技術を受け継いだのが和包丁だ。</p>



<p>二唐刃物鍛造所はもともと弘前城近くにあった。鍛冶屋だったのを5代目の二唐国俊氏が有限会社として、現在の場所に移したのが1949年のこと。その頃は鎌や鉈などの農具のほか、北洋サケ･マス漁船で使われる刃物も作っていたが、その需要も減って来たため、1965年頃から作り始めたのが包丁だった。</p>



<p>その一方、国俊氏は刀匠として全国にも知られ、県の無形文化財にも指定されている。刀作りは6代目二唐俊さんまで続けられていたという。</p>



<h3 class="wp-block-heading">「二唐ブランド」の基礎を築いた６代目</h3>



<p>俊さんは、良い包丁を作るために、職人の勘だけでなく、学問的な裏付けをしながら技術を確立した。金属工学やさまざまな理論を学び、近代化した刃物づくりの技術を遺したのである。これまで培ってきた技術とその精神を込めて和包丁「よし久」を作り世に送り出すと、その人気が高まっていった。「二唐ブランド」の基礎を築いたのである。それは「良品は声なくして人を呼ぶ」を銘訓とした二唐家の精神から生まれたものなのだ。</p>



<p>さらに1974年には建設資材関係の鉄鋼部門を設け株式会社とし、それにより溶接技術が磨かれることになる。</p>



<p>俊さんには後継がいなかったため、甥の吉澤俊寿さんが7代目として継ぐことになったという。「僕の記憶にある俊さんは寡黙な人で、正月の２日に行う『打ち初め』という神事には、父と一緒に刀を打っていました」と話すのは、現社長であり8代目の吉澤剛さん。</p>



<p>「物を創り出すことや、刃物を作る技術は文化です。技術は伝統から生まれ、その技術は先祖たちが生み出したもので、この技術を絶やすことはできません」。</p>



<p>使う人に合わせたオーダーメイドの包丁やアウトドア用のナイフなど用途を広げてきた吉澤さん。こうした二唐ブランドとその精神を今につないだ立役者でもある。</p>



<h2 class="wp-block-heading">24工程もあるなかで焼き色を見極める</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_28.jpg" alt="" class="wp-image-54585" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_28.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_28-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_28-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「包丁は地鉄（ぢがね）と玉鋼（たまはがね）の２つの素材を合わせて作られるんです」と吉澤さん。それぞれ素材の弱点を補うためなのだが、完成するまで24工程もあるのだという。</p>



<p>第一工場でその２つの素材を接合するための特殊粉薬を振りかけることから始まり、1200度の炉の中に2〜3分ほど入れる。鉄がオレンジ色になったところでコバシで取り出すのだが、この時の焼き色を見極めることが一番難しく大事な工程だと吉澤さん。</p>



<p>炉から取り出した鉄を機械ハンマーで叩きながら延ばし、少しずつ包丁の形にしていく。さらに槌で叩きながら微妙な調整をし、高温で熱し、水に入れて急冷する。それを硬さと粘りのある包丁にするため再び高温で焼き戻しをしていくのだ。</p>



<p>ここまでできたところで、次は研ぎになる。「私はあまり器用な方ではないので、他人の倍以上の努力が必要でしたが、ある程度包丁の形ができるようになるまでに、人にもよりますが最低１年はかかります。でもやりがいはありますよ」と吉澤さんはキッパリ話す。</p>



<h3 class="wp-block-heading">切れ味を良くするための小刃づけ作業</h3>



<p>包丁の形になったところで第二工場で研ぎの工程に入る。ここでの研磨機械は、鉄構事業部の溶接部門で作られたものだという。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_24.jpg" alt="" class="wp-image-54586" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_24.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_24-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_24-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>まず回転砥石に包丁の「あご」と呼ばれる端から切先まで、指で押さえながら研いでいく。この時、包丁を25度ほど傾け、極端に力を加えないように少しずつ横にスライドさせながら研いでいくのである。両面を研いだところで「小刃（こば）づけ作業」に入る。小刃づけとは切れ味を良くするため、先端を両面角度をつけて薄く研いで二段刃にしていくことで、すべての工程が職人技だ。完成した包丁は模様が浮き出て、キラリとした仕上がりになる。</p>



<p>「現在、鉄構事業部門と刃物事業部には合わせて30名の社員がおります。それぞれ熟練度の違いがありますが、基本的に包丁１本を責任を持って一人で仕上げるようにしています。もちろん最終的には先輩職人がチェックします」</p>



<p>二唐刃物鍛造所の大きな特徴は、それぞれの職人たちがデザインなどを自由にチャレンジすることができることだ。それが「二唐ブランド」を生み出す素地にもなっているのだ。またもうひとつの自社ブランドとして言えることは、製品のバラツキがないことだという。</p>



<h2 class="wp-block-heading">ケーキやパイ専用の刃物を作り、さらには職人の技術をつなぐ伝承施設を</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_116.jpg" alt="" class="wp-image-54587" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_116.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_116-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nigara_116-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「ありがたいことに、ここ近年、アジア圏や欧米からの海外需要が伸びており、約95%が輸出されています。それもほとんどは薄くて軽い、しかも切れ味がいいステンレス製の包丁に人気があります」と吉澤さんは話す。</p>



<p>ステンレス包丁もまた2種類の素材を組み合わせて作られるのだが、加工しにくく、鉄と比べて2倍近い作業時間を要するのだ。しかし、軽いうえに錆びにくいのが大きな特徴だという。</p>



<p>さらにまた大きな仕事が舞い込んだ。それはフランスのアウトドアブランド･オピネルとのコラボを組んだことだ。それは日本では初めてのことらしく、手に持つ柄の部分はオピネル、刃の部分は「二唐ブランド」の包丁で、しかも世界で2500本の限定品というものだ。</p>



<p>「今後は、ケーキやパイなどをスパッと切れる刃物に挑戦してみたい。それと将来的には失われつつある職人の技術を次に伝えていく伝承施設をつくれたらと思っています」と吉澤さんの夢は膨らんでいる。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54579/">350年もの伝統を刃物作りに受け継ぐ「二唐刃物鍛造所」／青森県弘前市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>日本一の大しめ縄誕生の地･飯南町に受け継がれるしめ縄づくり　出雲大社勧農講社頓原支部／島根県飯南町</title>
		<link>https://nihonmono.jp/article/54512/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 07 May 2026 10:47:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[出雲大社]]></category>
		<category><![CDATA[大しめ縄創作館]]></category>
		<category><![CDATA[大しめ縄]]></category>
		<category><![CDATA[注連縄]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00979__H6A7254.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>縁結びの神として知られる「出雲大社」。その神楽殿に掲げられた巨大なしめ縄は、訪れる人が思わず見上げる象徴的な存在だ。その大しめ縄を作り続けているのが、島根県飯南町にある「出雲大社勧農講社頓原支部（いずもたいしゃかんのうこ [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00979__H6A7254.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>縁結びの神として知られる「出雲大社」。その神楽殿に掲げられた巨大なしめ縄は、訪れる人が思わず見上げる象徴的な存在だ。その大しめ縄を作り続けているのが、島根県飯南町にある「出雲大社勧農講社頓原支部（いずもたいしゃかんのうこうしゃとんばらしぶ）」。神話の地を支えるしめ縄づくりの技術は、町の誇りとともに受け継がれてきた。</p>



<h2 class="wp-block-heading">山里の作業場から生まれる巨大なしめ縄</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00872_142A0019.jpg" alt="" class="wp-image-54520" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00872_142A0019.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00872_142A0019-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00872_142A0019-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>中国山地の山々に囲まれた島根県飯南町（いいなんちょう）。冬には雪が降り積もり、澄んだ水と豊かな田畑に恵まれた静かな土地だ。その町にある「大しめ縄創作館」で大しめ縄づくりを担っているのが、「出雲大社勧農講社頓原支部」だ。代表を務めるのは和田さん。この土地で長く続いてきた奉納の営みを支えている。</p>



<h3 class="wp-block-heading">山里に受け継がれるしめ縄づくり</h3>



<p>「出雲大社勧農講社頓原支部」では、日本でもひときわ大きな一本のしめ縄の制作を担っている。行き先は、全国から参拝者が訪れる出雲大社の神楽殿だ。長さおよそ13.6メートル、重さはおよそ5トン。初めて目にした人は、その大きさに思わず足を止め、見上げてしまうほどの迫力だ。だが、その壮大なしめ縄が生まれる場所は、観光地の喧騒とは無縁の山里にある作業場である。</p>



<h3 class="wp-block-heading">大しめ縄と飯南町のつながり</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00876__H6A7113.jpg" alt="" class="wp-image-54521" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00876__H6A7113.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00876__H6A7113-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00876__H6A7113-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>飯南町と大しめ縄の関係は、昭和30年代までさかのぼる。当時、この地域には出雲大社分院が置かれていた。その縁から、近隣の住民や信者たちによってしめ縄が作られ、神社へ奉納されるようになったという。</p>



<p>やがて昭和56年、出雲大社神楽殿が建立された際、新たなしめ縄の制作が依頼された。それが長さおよそ13.6メートルに及ぶ巨大なしめ縄だ。神楽殿にふさわしい大きさのしめ縄を作るため、地域の人々が協力して制作に取り組むことになる。当初は頓原小学校の講堂、その後、中学校の体育館へと場所を移しながら、しめ縄づくりは続けられ、平成27年、しめ縄づくりの拠点として「大しめ縄創作館」が完成した。</p>



<h2 class="wp-block-heading">しめ縄文化を今に伝える「大しめ縄創作館」</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00879__H6A7067.jpg" alt="" class="wp-image-54522" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00879__H6A7067.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00879__H6A7067-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00879__H6A7067-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>そもそもしめ縄とは、神様が宿る場所と私たちの暮らす世界を隔てる「結界」の役割をもつもの。古来より神社や神棚、家の玄関などに飾られ、日本人の暮らしの中に深く根付いてきた。「大しめ縄創作館」では、そんなしめ縄の歴史を伝える写真や資料などが並び、地域で受け継がれてきたしめ縄づくりの文化を知ることができる。</p>



<h3 class="wp-block-heading">熟練の技で編み上げられるしめ縄</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00881__H6A7074.jpg" alt="" class="wp-image-54523" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00881__H6A7074.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00881__H6A7074-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00881__H6A7074-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>奥へ進むと、作業場が広がる。そこでは職人たちが実際にしめ縄を編み上げる作業を行っている。編む人、芯を取る人、小さな部材を作る人。それぞれの役割を分担しながら作業が進められる。館内には乾いた稲わらの香りが漂い、束ねたわらをより合わせる音が静かに響く。職人たちはわらを手に取り、力を込めてねじりながら一本の縄へと仕上げていく。</p>



<p>しめ縄づくりは一見単純な作業のようにも見えるが、均一な太さの縄を作るには熟練の技術が必要だ。わらの束をどのくらいの力で締めるか、どの角度でより合わせるか。その加減は、長年の経験によって身につくものだという。</p>



<h2 class="wp-block-heading">神楽殿に掛けられる巨大なしめ縄づくり</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00897__H6A7139.jpg" alt="" class="wp-image-54524" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00897__H6A7139.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00897__H6A7139-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00897__H6A7139-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>普段のしめ縄づくりは創作館の奥のスペースで行われているが、出雲大社神楽殿に掛けられる大しめ縄を制作する際には、館内の様子は大きく変わる。約13.6mもの巨大なしめ縄を作るために、建物全体を使って制作が行われるのだ。</p>



<p>大しめ縄は一本の縄から作られるわけではない。複数の太い縄を編み、それらを組み合わせることで完成する。わらを束ね、より合わせ、さらに組み上げていく作業には多くの時間と人手が必要になる。</p>



<h3 class="wp-block-heading">縄の素材となる稲づくりも飯南町で</h3>



<p>大しめ縄の制作は春、田植えから始まる。地元飯南町産の素材で作るのが基本で、町内にはしめ縄専用の田んぼが整備されている。育てるのは「赤穂餅（あかほもち）」という品種の餅米。一般的な餅米よりも粘りが強く、縄に撚ったときに千切れにくいという特徴がある。大しめ縄のような巨大な縄を作るには、こうした丈夫な稲が欠かせない。</p>



<p>食べるための米とは違い、しめ縄用の稲は実がつく前に刈り取られる。まだ青く、繊維が丈夫な状態の方が、強く美しい縄に仕上げられるからだ。刈り取られた稲は乾燥させ、束ねられ、やがて縄へと撚られていく。作りたてのしめ縄には、稲の青みがほのかに残る。時間とともに色が抜け、やがて神社で見慣れた落ち着いた茶色へと変わっていく。</p>



<h3 class="wp-block-heading">今年の夏、神楽殿で架け替えへ</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00986_142A0606.jpg" alt="" class="wp-image-54525" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00986_142A0606.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00986_142A0606-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00986_142A0606-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>制作の終盤には「大撚り合わせ」と呼ばれる工程がある。何本もの太い縄を束ね、巨大な一本へと撚り上げる作業だ。機械だけでは難しいため、多くの人の力が必要になる。飯南町ではこの工程に参加する人を募集し、地域の人々や有志が力を合わせて縄を仕上げていく。大しめ縄づくりには、延べ800人もの人々が関わるという。巨大なしめ縄は、職人だけでなく町の人々の力によって完成するのだ。</p>



<p>大しめ縄はおよそ6〜7年に一度、新しいものへと掛け替えられる。神楽殿での架け替え作業は一日がかりで行われ、巨大なしめ縄がゆっくりと吊り上げられていく光景は圧巻だ。次の架け替えは今年、2026年７月。田んぼで育てられた稲が、長い時間をかけて一本の縄となり、再び神楽殿に掲げられることになる。</p>



<h2 class="wp-block-heading">飯南町から全国へ広がるしめ縄づくり</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00981__H6A7264.jpg" alt="" class="wp-image-54526" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00981__H6A7264.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00981__H6A7264-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00981__H6A7264-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>創作館が整備され、制作の様子が公開されるようになると、その技術が広く知られるようになった。現在では日本全国の神社や施設、そして海外からもしめ縄の制作依頼が寄せられているという。</p>



<p>そのため館内では、大しめ縄の制作がない時期でも年間を通してしめ縄づくりが続けられている。サイズも用途もさまざまで、神社に飾られるものから施設の装飾に使われるものまで、出雲で編まれた縄が各地へと届けられている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">地域の誇りを日本全国、そして次世代へ</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00931__H6A7525.jpg" alt="" class="wp-image-54527" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00931__H6A7525.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00931__H6A7525-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/nih2_00931__H6A7525-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「しめ縄づくりはこの地域の誇りです。」と語る和田さん。ここ飯南町でのしめ縄づくりの技術は、今では全国へと広がり、日本各地の祈りの場を支える存在となっている。</p>



<p>一方で、飯南町は高齢化が進んでいる地域。しめ縄づくりの技術を次の世代へどう繋いでいくかは、大きな課題でもある。それでも、この町では今日も藁が束ねられ、縄が撚られている。その手仕事は、地域の誇りとともに日本各地や海外、そして未来へと受け継がれていこうとしている。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54512/">日本一の大しめ縄誕生の地･飯南町に受け継がれるしめ縄づくり　出雲大社勧農講社頓原支部／島根県飯南町</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>伝統を継ぎ、創造に挑む。ねぶた師･竹浪比呂央さん／青森県青森市</title>
		<link>https://nihonmono.jp/article/54459/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 07 May 2026 10:12:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[ねぶた名人]]></category>
		<category><![CDATA[ねぶた]]></category>
		<category><![CDATA[青森ねぶた祭]]></category>
		<category><![CDATA[第七代ねぶた名人]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_115.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>ねぶた師と呼ばれる大型ねぶたの制作者は、「青森ねぶた祭」の顔を作る職人だ。なかでも竹浪比呂央さんは、長年にわたり高い技術で青森ねぶた祭に貢献した制作者が認定される「ねぶた名人」の称号を与えられた、歴代7人の1人。数百年続 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_115.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>ねぶた師と呼ばれる大型ねぶたの制作者は、「青森ねぶた祭」の顔を作る職人だ。なかでも竹浪比呂央さんは、長年にわたり高い技術で青森ねぶた祭に貢献した制作者が認定される「ねぶた名人」の称号を与えられた、歴代7人の1人。数百年続く民族行事としてのねぶたの伝統を継承しつつ、ねぶたを造形作品として新たな境地に挑む表現者でもある。</p>



<h2 class="wp-block-heading">青森市が誇る、日本屈指の火祭り </h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_142.jpg" alt="" class="wp-image-54469" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_142.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_142-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_142-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>「青森ねぶた祭」は、青森県青森市で毎年8月2日から7日にかけて開催される夏祭り。20数台の大型ねぶたが、「ラッセラー」の掛け声とともに乱舞する跳人（はねと）、笛や太鼓を奏でる囃し（はやし）方とともに、街なかを練り歩く。開催期間中は、100万人を超える人出で賑わう。</p>



<h3 class="wp-block-heading">眠流の民俗行事から一大祭典へ</h3>



<p>今や日本を代表する巨大祭典だが、その起源は民族行事だ。南部地方を除く青森県内では、各地で独自の“ねぶた”または、“ねぷた”と呼ばれる祭りが行われており、地域によって呼び方や形が異なるがルーツは同じで、七夕の習俗から発展したものと考えられている。諸説あるが、農作業のさまたげとなる眠気を流す「眠り流し」の影響が見られ、「ねぷてー（津軽のことばで眠いの意味）を流す」からねぶた･ねぷたに転じたという説もある。</p>



<p>青森市のねぶたの記録としては、1730年（享保15年）に大浜（現在の青森市油川）でねぶたを出したという古文書が残っている。記録の上ではこれが「青森ねぶた」が記録に現れた最初とされているが、実際にはそれ以上前から、記録に残すまでもない年中行事として行われていたと推察されている。</p>



<p>「青森市を含む県内各地のねぶたは、町衆の思いだけで何百年も伝わってきた。非常に珍しく貴重な祭りだと思います」と竹浪さん。長い時間の中で、世情が変わりまちの形が変わっても、ねぶたは受け継がれ、成長してきた。その裏には、この土地の人々の熱い情熱があるに違いない。</p>



<p>近代では、町内ごとにねぶたが作られ運行されてきたが、観光化の流れにのりどんどん大型化していくと、地域ねぶたの伝統は残りながらも、祭りの中心は企業を母体とする「青森ねぶた祭」へと移行。ねぶた制作者についても、もとは手先が器用なねぶた好きが作っていたものが、大型ねぶたは制作技術を高めた専門の制作者＝ねぶた師が作るようになった。</p>



<h3 class="wp-block-heading">大型ねぶたの作り手「ねぶた師」</h3>



<p>かつてねぶた･ねぷたは和紙と竹で作り、中にはロウソクを灯していた。人形型や扇形があり、青森ねぶたは主に人形型である。戦後に国道の道幅が広がったことで、現在の横広の形に変わっていき、その後材料も進化。現代は針金に和紙を貼り、照明にはLEDを使っている。</p>



<p>制作者である「ねぶた師」は、2025年現在で十数人おり、竹浪さんもそのひとり。竹浪さんは、祭りが終わる前から次の年の題材を考えるという。題材となるのは歌舞伎や歴史、伝説が主。母体の企業とテーマをすり合わせて、文献や資料を調査し、構想をまとめて原画を描く。この原画の作業が、「ねぶた師の仕事の中で最も重要」と竹浪さん。「同じ題材、同じ場面でも、制作者の個性によって表現が異なります。切り取った場面を絵にする感性、色彩のセンスが問われるんです」と話す。正月頃までには原画の鉛筆デッサンを完成させ、顔や手足などの細部をあらかじめ作っておく。5月になると、「ラッセランド」と呼ばれるねぶた小屋へ移動。角材の支柱をベースに骨組みを作り、照明を取り付け、和紙を貼り、顔や輪郭などを墨で書く「書き割り」へと進んでいく。書き割りもまた、非常に重要な作業で、特に表情が決まる面入れは「何度臨んでも緊張する」と言う。これが終わるとロウで模様を付けて、絵の具や染料を調合した染料を使いハケや筆、スプレーなどで彩色して完成だ。</p>



<p>すべての作業をねぶた師が一人で行うのではなく、大工作業や紙貼り、照明の取り付けは専門家やスタッフが行い、その際ねぶた師は現場監督の役目も果たす。そうしてさまざまな人の手によって完成したねぶたを台車に乗せる「台上げ」の瞬間は、格別の感動があるという。構想から制作まで、実に一年をかけて作り上げるねぶた。竹浪さんもそうだが、複数台を手掛ける人もおり、それだけの力量を求められるのがねぶた師である。</p>



<h2 class="wp-block-heading">「ねぶたを作るために生まれてきた」。ねぶたに魅了された人生</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_168.jpg" alt="" class="wp-image-54470" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_168.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_168-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_168-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>竹浪さんは旧木造町（現つがる市）の出身。そこにも地域密着型の小さなねぶた祭りがあり、竹浪さんが生まれ育った町内会からも毎年出陣していたという。幼い頃、そのねぶたに魅せられた。「3歳の頃からだったと思います。あまりにもねぶた、ねぶたと騒ぐ子どもだったようで。そのうちに、青森の大きなねぶたを見に連れていってもらったんです。そしたらもう、取り憑かれてしまいましたね」。</p>



<p>19歳から千葉作龍さん（第五代名人）のねぶた小屋に通い始め、手伝うようになる。「たくさんの制作者がいらっしゃる中で、千葉先生のねぶたは、とてもお洒落で新鮮に見えました。それで、この方のお手伝いをしてみたいと。門戸を叩くと、受け入れてもらえたんです」。それからは制作に没頭する日々を送り、1989年、30歳で大型ねぶたデビューを果たす。以降は青森ねぶた祭で毎年制作を手掛けるほか、1996年にブタペスト、1998年に東京ドーム、2007年にロサンゼルスと遠征での出陣ねぶた制作にも関わるなど、業界の中心的な役割を担うようになっていった。2010年、通年活動するための「ねぶた研究所」を立ち上げる。2023年には、63歳で第七代ねぶた名人に認定された。</p>



<p>「子どもにとってのおもちゃのように大事だったものが、大人になってもずっと同じように大事なんですよね。3歳、4歳のときと価値観が変わっていないのかもしれません」と、顔をほころばせる竹浪さん。「今は、ねぶたを作るために生まれてきたのだと思っています」。</p>



<h3 class="wp-block-heading">立体感と色彩が、ねぶたに命を宿らせる</h3>



<p>竹浪さんは、戦いの場面はあまり好んで描かないという。「邪悪なものを払う、魔を払い除ける守護神のような、金剛力士、仁王像のようなものが多い」と言い、刀を持たせるにしても、武器としての意味合いよりは、魔を払い除けるために持たせることが多いそうだ。これは竹浪さんの個性であり、表現である。「毎年題材を決めるのが本当に大変」と竹浪さんが話す通り、青森ねぶた祭で制作されるねぶたは1年で約23台、10年だと約230台にもなるだけに、過去に作られたねぶたと同じテーマになることもあるし、場面が被ることもある。「創作の世界の中で、誰もが憧れの存在がいて、理想がある中で、自分のものをいかに出せるかが難しい」と胸の内を明かす。</p>



<p>そんな中で竹浪さんの「自分らしさ」は、ねぶたに奥行き感や立体感を生み出すことだという。「幅9メートル、奥行き7メートル、高さ5メートルの立方体の中に、登場人物の部位をいかに配置して収めるか。置き方一つで見え方がまったく変わってきますから、その部分に特にこだわっています」と話す。さらに、色の配置も重要とのこと。竹浪さんは、好きな赤色のような一つの原色を核として、そこからほかの色彩を散らしていくようなイメージで配置するという。祭り本番で、沿道の観客に遠くからゆらりゆらりとやってくるねぶたが力強く見えるように、色彩で力強さを表現するのだ。「それから、墨の線も存在感のある線を書くように意識します。色を塗るのはスタッフとの共同作業だったりしますが、墨の線だけは全部私が書きます。墨の線で特徴が出ますから」。迫り来るねぶたの勇壮さは、ねぶた師のこうした工夫と努力によって生み出されているといえる。</p>



<h3 class="wp-block-heading">人に勝つより、自分に負けないこと</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_135.jpg" alt="" class="wp-image-54471" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_135.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_135-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_135-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>竹浪さんは、2025年の青森ねぶた祭において、青森菱友会の「海王（かいおう）」で、ねぶた大賞と最優秀制作者賞を受賞した。「海王」は、次の受賞ねぶたと入れ替わる2026年8月9日まで、「青森市文化観光交流施設 ねぶたの家ワ･ラッセ」で展示されている。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_140.jpg" alt="" class="wp-image-54472" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_140.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_140-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_140-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>2025年は青森市が開港400年という記念すべき年だった。これをテーマに、海に育まれて発展してきた青森市の歴史を改めて考え、更なる繁栄への願いを込めて、海の守護神ポセイドンの勇姿をねぶたで和の世界観に表現。日本の武者に扮したポセイドンの周囲に、鯱（体が魚、頭が虎の想像上の生き物）や、体が魚の竜を配置。後部には青森の海にもいるイルカを置き、舞台が青森の海であることを纏わせた。「波の色と鯱の黄色系との対比で、色彩のインパクトを出しています。また、墨の部分は、ポセイドンの腕や肋骨を表現する線を、あえて強く、荒っぽく描きました」と竹浪さん。受賞時には、「ガツンと迫力のある、これぞねぶたというのを表現できた」とコメントしている。竹浪さんの個性が存分に発揮されての受賞だった。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_137.jpg" alt="" class="wp-image-54473" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_137.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_137-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_137-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>大賞を受賞したねぶたは、ワ・ラッセの「ねぶたホール」の最も人目を引く特等席に据えられる。「海王」の前に立ち、竹浪さんは語った。「来年もまたこの場所に戻ってきたいと、来る度に気合いが入ります。毎年ねぶたを作っていて、毎回本当に悩みますけれども、でもその悩みが楽しみでもある。スポーツのように数字であきらかな結果が出るようなものではないので、人に勝つというより、自分に負けないという、そういう目標を掲げています。自分が作りたいと直感で思ったものを、絶対に妥協しないこと。誰に言うこともないですけれど、自分に負けないっていうのは大事にしています」。</p>



<h2 class="wp-block-heading">未来を想って、ねぶたを新たな造形へ</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_04.jpg" alt="" class="wp-image-54474" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_04.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_04-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_04-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>竹浪さんがこの世界に入った時代、ねぶた師はまだ職業として確立されていなかった。制作に一年をかけても、それで食べていけるわけではなかったのだ。だが、ねぶたは成長を続け、世界に誇れるほどになった。竹浪さんのもとへも、移住してまでねぶたを作りたいという人がくる。「来てくれる方々は、これからのねぶたを支えていく人たち。ねぶたを未来に繋ぐためにも、そういう方々がねぶた師として食べていけるよう、職業として確立していかなければならない。ねぶたを祭りの道具としてだけでなく、造形作品としての価値を見出すことで、可能性を広げていけないか」。研究所を立ち上げたのは、そんな想いからだったという。</p>



<p>しかし、研究所の設立当初は、風当たりが強かったという。「ねぶたは芸術ではなくて、あくまで祭り」という声が多かったのだ。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_03.jpg" alt="" class="wp-image-54475" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_03.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_03-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_03-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>それでも竹浪さんは、｢紙と灯りの造形｣ をコンセプトに、ねぶたの新たな可能性を追求し続けた。ねぶたの技法を使ったインテリア雑貨やアパレルなどのブランド「NEBUTA STYLE」を立ち上げたり、レストランやホテルに飾るオブジェを制作したり。これらを手掛ける造形作家としての側面も持たせることで、生計を立てられる仕組みを作っていった。その上、この新たなプロダクトはねぶたの魅力発信にも繋がる。思い描いた夢が少しずつ叶っていくと同時に、周りの意識も変わってきたと、竹浪さんは感じている。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_181.jpg" alt="" class="wp-image-54476" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_181.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_181-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/takenami_181-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>竹浪さんのこれからの目標は、ねぶたを日本の文化、和紙の造形作品として、より広く世界に発信していくこと。「これまでに行ったアメリカやブタペストでは、ねぶたに灯りを入れるとどよめきが起こりました。みなさんすごく驚き、喜んでくださるんです。まだねぶたを知らない、ヨーロッパなど別の国にも持っていってみたいですね」。そう語る竹浪さんの眼差しはとても輝いていて、ねぶたに憧れ続けた少年の目が、今もそこにあるかのようだった。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54459/">伝統を継ぎ、創造に挑む。ねぶた師･竹浪比呂央さん／青森県青森市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>山あいの窯で、光を重ねる「御船窯」 ／熊本県上益城郡御船町</title>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 07 May 2026 09:53:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[新着記事]]></category>
		<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[貫入青磁]]></category>
		<category><![CDATA[焼締め]]></category>
		<category><![CDATA[陶芸]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6743.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>山あいに佇む「御船窯（みふねがま）」のギャラリーには、双子の兄弟が手がける２種の器が並んでいる。土と炎が力強い質感を生み出す「焼締め」と、塗り重ねられた釉の層に光を宿す「青磁」。弟の津金日人夢（つがねひとむ）さんは、陶芸 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6743.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>山あいに佇む「御船窯（みふねがま）」のギャラリーには、双子の兄弟が手がける２種の器が並んでいる。土と炎が力強い質感を生み出す「焼締め」と、塗り重ねられた釉の層に光を宿す「青磁」。弟の津金日人夢（つがねひとむ）さんは、陶芸のなかで最も難しいとされる青磁の道を選んだ。</p>



<h2 class="wp-block-heading">脱サラした父の窯。暮らしの器の時代</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6378.jpg" alt="" class="wp-image-54440" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6378.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6378-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6378-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>御船窯があるのは、市街地から少し離れた山あいの森のなか。今から40年ほど前、脱サラした父が熊本県八代市で約400年続く陶磁器・高田焼の技法を学び、独立。この地に窯を築いたのが始まりだった。高田焼は青磁で知られるが、父は青磁には取り組まず、わらや木など植物灰を原料とした釉薬による灰釉（はいゆう）陶器や粉引きといった日用の器を手がけた。焼き物ブームの中で、あちこちに窯元が乱立していた時代だったが父の器は人気を集め、週末ともなれば駐車場に入りきらないほどの人が、この窯を訪れた。</p>



<h2 class="wp-block-heading">窯元から作家へ、青磁という賭け </h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6513.jpg" alt="" class="wp-image-54441" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6513.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6513-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6513-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>そんな環境で育った津金さんは、佐賀県有田にあった全国唯一の窯業専門の専修学校で陶芸の基礎を学び、卒業後、帰郷。卒業後は父の片腕として日用の器としての茶碗を何十個も作り、展示会が終わればまとまったお金をもらう。求められる数を、決められた形で作る“職人”的な働き方だった。しかし、窯元を続けていくには、これまでのように山あいの窯で日用の器を作って並べ、客を待つだけでは難しい時代になっていた。</p>



<p>「このままでは続かない」。</p>



<p>そう感じるようになった津金さんは、量ではなく、作品そのものと向き合う道を考えはじめる。</p>



<p>「ならば、作家として何をやるのか」。<br>そう自問したとき、たどり着いたのが青磁だった。陶芸の世界でも最も難しいと言われるジャンルで、手がける人も多くはない。だからこそ、それを極めてみたいと思ったという。青磁の起源は古代中国にさかのぼる。素地に透明釉をかけ、窯の中を酸欠状態にして焼成すると、釉薬に含まれる鉄分が青く発色する。しかし、天然原料の釉薬は鉄分量が安定せず、素地の土や炎の具合によっても、仕上がりの色は異なる。イメージ通りの青を出すのは、容易なことではない。その難しさから、青磁はかつて、「手を出すと身代を潰す」と言われ、体系的に学ぶ環境もほとんどない中で、津金さんは本を買い集め、理解できない部分は他の文献で補いながら、独学で青磁の研究を重ねていった。<br>「このままではダメだと思って始めた青磁でしたが、やってみると、どんどんのめり込んでいきました」。</p>



<h3 class="wp-block-heading">厚い釉、薄い土——青磁を組み立てる技術 </h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6735.jpg" alt="" class="wp-image-54442" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6735.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6735-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6735-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>最初は不思議なほど順調だった。地方の展覧会で賞も取れた。だが、日本工芸会の世界へ入ると、こう言われた。「それは青磁じゃない。本物を見たことがあるのか」。</p>



<p>日本工芸会の世界では、地方の展覧会とは評価の基準がまったく異なる。作品の出来栄えだけでなく、素材や技法、歴史的な文脈まで含めて「本物の工芸かどうか」が厳しく問われる世界だ。津金さんの認識は、根本から覆された。青磁は、ただ青や緑に見えればいいわけではない。特徴は、釉薬を驚くほど厚くかけることだ。一般的な器が1ミリ未満なのに対し、青磁では2ミリ以上、場合によっては4ミリを超える。厚い釉の層の中で光と鉄分が反応し、あの深い色合いが生まれる。</p>



<p>釉薬が厚い分、土台となる器は極端に薄く作らなければ、品が出ない。だが、薄くすればするほど、焼成の途中で土が耐えきれず、へたったり歪んだりしてしまう。<br>そこで必要となるのが、土そのものをつくる作業だ。津金さんは日本各地の土を試し、焼きに耐える強さや、成形のしやすさ、焼き上がりの安定感などを少しずつ調整し、独自に配合していった。「これでいい」と思っても、また手を入れたくなる。その繰り返しだ。</p>



<h3 class="wp-block-heading">時間が描く線。貫入という名の表情 </h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6750.jpg" alt="" class="wp-image-54443" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6750.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6750-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6750-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>釉薬のかけ方も、同じように手間がかかる。内側に3回、乾かしては重ね、外にも3回。焼く前の姿は、本当に青磁になるのか？と疑うほど、完成系からはほど遠い。しかも、窯の中の状態が少し変わるだけで、色は簡単にブレてしまう。「酸素の具合ひとつで、青磁は黄色にも傾きます。色をつくるのではなく、厚くかけた釉薬の中で、鉄分の発色を引き出す。それが、青磁という焼き物だと思います」。津金さんはそう話す。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6599.jpg" alt="" class="wp-image-54444" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6599.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6599-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6599-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>津金さんの器の中でも特徴的なのが、「貫入青磁（かんにゅうせいじ）」と呼ばれるものだ。貫入とは、焼き上がった器を窯から出し、冷ます過程で生まれる細やかなヒビのこと。青磁では、土と釉薬の収縮率のわずかな違いによって、表面の釉薬に細かな亀裂が入る。薄い氷が張ったように見えるものもあれば、ヒビにベンガラを擦り込み、赤い線として際立たせたものもある。一般的には、こうした貫入は偶然に生まれるものとされる。しかし津金さんは、釉薬の厚みや焼成、冷却の条件を細かく調整し、貫入の入り方そのものを作品の表情として引き出している。<br>貫入は、必ずしも窯から出した瞬間に入るわけではない。数日後、ときには1ヶ月ほど経って、「バキン」と音を立てて入ることもある。赤く浮かび上がる線と、後から入る透明な線。その重なりが、使い込むほどに器の表情を変えていく。</p>



<h2 class="wp-block-heading">青磁の品格を決めるもの</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6739.jpg" alt="" class="wp-image-54445" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6739.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6739-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6739-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>津金さんは、日本工芸会が主催する国内最高峰の公募展「日本伝統工芸展」に初入選して以降、作品が宮内庁に買い上げられるなど評価を高めてきた。さらに「日本工芸会賞」の受賞をはじめとする実績を重ね、青磁の分野で確かな地位を築いている。一方で、賞をめぐる価値観は、この十数年で大きく変わったという。かつては、受賞が百貨店の催事を呼び、客もそれを目印に訪れた。今は、個人の感覚で器を選ぶ人が増え、「賞がすべてを決める時代ではなくなってきた」と、津金さんはいう。<br>それでも彼の中で揺るがないのは、青磁に求められる「品格」だ。目指すのは、雨過天青（うかてんせい）と呼ばれる、水のように澄んだ青。その理想に近づくため、中国の青磁の系譜を学び、現地にも足を運ぶ。ルーツを知ることが、新しい表現への確かな土台になると考えている。</p>



<p><br>窯はガス窯を使う。窯の種類にこだわるのではなく、作品にふさわしい炎を選ぶという考え方だ。青磁には、不純物の少ない、強く安定した炎が欠かせない。</p>



<p>さらに近年は、原料そのものが失われつつある。土を掘る人が減り、長年使ってきた土が「もう出せない」と告げられることもある。<br>津金さんは、手に入る分を確保しながら次の土を探し、原料屋とも現場で会って関係をつなぐ。「土を掘る人がいなければ、僕らも作れない」。</p>



<h2 class="wp-block-heading">使われることで、完成していく</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6527.jpg" alt="" class="wp-image-54446" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6527.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6527-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/05/IMG_6527-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>目標は、「津金の青磁、いいな。ひとつ持っておきたい」と思わせる作り手になること。箱に入れて飾る器ではなく、食卓で使われ、ふと「それ、誰の？」と聞かれるような器をつくりたいと考えている。</p>



<p>青磁は地味で、下積みが長い。歩留まりも決して良くはない。それでも、難しさの先にある品格に惹かれ、辞めなかった。“70歳を超える名匠でさえ、捨て場に失敗作が山ほどある”。その話を聞いたとき、肩の力が抜けたという。</p>



<p>「一生やる」。その言葉を、静かに噛み締める。</p>



<p>器は、焼き上がって終わりではなく、使われることで少しずつ、完成していく。津金さんの仕事もまた、そんな風にゆっくり積み重ねられている。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54432/">山あいの窯で、光を重ねる「御船窯」 ／熊本県上益城郡御船町</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>問いを重ね、灯りをつなぐ。「山鹿灯籠の店 なかしま」中島弘敬さん／熊本県山鹿市</title>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 20 Apr 2026 11:42:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[山鹿灯籠まつり]]></category>
		<category><![CDATA[金灯籠]]></category>
		<category><![CDATA[灯籠師]]></category>
		<category><![CDATA[伝統工芸]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3066.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「よへほ〜、よへほ〜」。民謡・よへほ節に合わせ、約千人の女性たちが優雅に舞う「山鹿灯籠（やまがとうろう）まつり」。踊り手の頭上にゆらめく明かりの正体は、伝統工芸品である山鹿灯籠。中島弘敬さんは山鹿灯籠師の系譜を継ぐ4代目 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54382/">問いを重ね、灯りをつなぐ。「山鹿灯籠の店 なかしま」中島弘敬さん／熊本県山鹿市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3066.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「よへほ〜、よへほ〜」。民謡・よへほ節に合わせ、約千人の女性たちが優雅に舞う「山鹿灯籠（やまがとうろう）まつり」。踊り手の頭上にゆらめく明かりの正体は、伝統工芸品である山鹿灯籠。中島弘敬さんは山鹿灯籠師の系譜を継ぐ4代目。伝統を礎に、時代に合わせて変化していくことも厭わない。</p>



<h2 class="wp-block-heading">踊り手の頭上にゆらめく幻想的な明かりは伝統工芸品</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3080.jpg" alt="" class="wp-image-54388" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3080.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3080-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3080-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>————骨もなけれど　肉もなし　よへほ　よへほ————</p>



<p>民謡・よへほ節に合わせ、約千人の女性たちが体をしなやかに動かして優雅に舞う「山鹿灯籠まつり」。毎年8月に開催され、例年約10万人以上が来場する、山鹿市の一大イベントだ。深い霧の中で道に迷った第12代景行天皇を、山鹿の里人たちが松明を頭上に掲げて案内したことが祭りの起源と伝わる。​​夜の闇の中、踊り手の頭上にゆらめく幻想的な明かりの正体は、伝統工芸品である山鹿灯籠の一種「金灯籠」。遠目では金属製に見えるが、実は紙製。木や金具は一切使わず、和紙と少量の糊だけで立体的に組み上げられており、重さはたったの約180グラムしかない。紙製とは思えない見た目の重厚さや豪華さを実現するためには精巧な技術を要し、「灯籠師」と呼ばれる職人が制作を担う。</p>



<p>中島弘敬さんは100年以上続く灯籠師の家系の４代目。曽祖父と祖父の代では灯籠師と時計屋を兼業していたが、父親の代から灯籠師一本となり、豊前街道沿いで灯籠専門店「山鹿灯籠の店 なかしま」を営んでいる。中島さんは灯籠師の家系の次男として生まれ、33歳までサラリーマンだった。だが、兄弟の誰一人として実家を継ぐ者がいなければ技術が途絶えてしまうと一念発起。父親の弟子となり、灯籠師の道に入って今に至る。</p>



<h3 class="wp-block-heading">異業種から転職し、師匠である父のもとで技術を習得した</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2855.jpg" alt="" class="wp-image-54389" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2855.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2855-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2855-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>異業種からの転職は簡単ではなかった。幼い頃から父親の制作の様子を間近に見ており、転職前から修行はしていたものの、伝統工芸士の技術はそうやすやすと習得できるものではない。山鹿灯籠の制作は細かい作業の連続で、指先は痛み、目は疲れ、肩は凝る。並大抵ではない集中力と根気が必要だ。しかも、師匠である父親からは容赦なくダメ出しを受ける。「だけど、今思えば息子だからといって甘やかすことなく、一人の弟子として扱ってくれた父に感謝しています」と中島さんは言う。灯籠師を名乗るには、約10年の修行を積み、他の灯籠師たちから技術を認められる必要がある。中島さんが認定を受けたのは2017年、40代になってからのことだった。</p>



<p>山鹿灯籠には前述の金灯籠を筆頭に、神殿や楼門、五重塔といった神社仏閣建築を題材とする「宮造り」、伝統的な日本家屋を模した「座敷造り」など、伝統的な様式がある。加えて、灯籠師自身が編み出した作品も多く、多彩で、種類が豊富だ。これらは主に、後述する「奉納灯籠」に用いられ、灯りをつけない仕様のものもある。ほか、地元の家庭では初盆の提灯代わりに飾られることも多く、家紋入りのオーダーメイドにも対応する。</p>



<p>山鹿灯籠の条件は「手漉き和紙と糊のみを使用すること」「灯籠の主な部材は空洞とすること」「曲線部分にのりしろを作らないこと」の3つ。だから、勧進帳の弁慶や電車、戦艦などが作られた例もあり、自由で多様だ。その中でも金灯籠が注視されるのは、山鹿灯籠まつりのシンボルというだけでなく、灯籠師の登竜門的様式だからだろう。灯籠師に必要とされる技術が集約されており、金灯籠を完成させてこそ、認定の第一歩とされている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">地域社会の営みに深く根差した伝統工芸</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2944.jpg" alt="" class="wp-image-54390" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2944.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2944-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2944-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>金灯籠の制作は、ミリ単位での作業が延々と続く。図面を写した厚手の和紙をカットし、組み立てる。言葉にするとたったこれだけだが、内部が空洞で骨組みがないため、和紙の貼り合わせのみで形を保ち、強度を担保しなければならない。だから山鹿灯籠は「骨なし灯籠」との異名を持つ。これが冒頭の民謡で「骨もなけれど　肉もなし」と唄われる所以である。</p>



<p>骨も肉もないから、和紙の貼り合わせがわずかにずれるだけで、崩れる。そして、ぴったりと貼り合わせるためには、和紙を寸分の狂いもなくカットしてあることが前提だ。金灯籠はおよそ200のパーツから成り、準備から完成まで3日ほどかかる。「山鹿灯籠を制作するには、集中力を欠くことなくやり遂げる根気が必要」との中島さんの言葉に、改めて頷く。</p>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3093.jpg" alt="" class="wp-image-54391" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3093.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3093-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_3093-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>こうして作られた灯籠は踊り手の頭上に載せられるほか、奉納灯籠にも用いられる。奉納灯籠とは、祭りのために町内会などの団体ごとに灯籠師に依頼して作る灯籠のことで、祭り期間の展示を終えると地元の「大宮神社」に奉納することからこの名が付いた。形状などに規定はなく、モチーフは団体と灯籠師の相談で決まる。毎年27〜28基が作られ、奉納後は神社内にある「燈籠殿」で保管・展示。1年後の8月に新しい灯籠と入れ替えられる。「毎年のことですが、依頼主から喜んでもらえることが本当に嬉しい。頑張ってよかった、と報われる瞬間です」と中島さんは言う。</p>



<h2 class="wp-block-heading">伝統を未来につなぐためには“問い”が必要</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2841.jpg" alt="" class="wp-image-54392" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2841.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2841-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2841-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>山鹿灯籠は約2000年前、第12代景行天皇が筑紫路巡幸の際に深い霧に進路を阻まれた際、山鹿の人々が松明（たいまつ）で案内したことが発端と伝わる。その後、人々は景行天皇を祀る大宮神社に松明を奉納し続け、室町時代に松明が山鹿灯籠へと変わったという。そして、江戸時代には町の有力者たちが奉納灯籠の豪華さを競い合うようになり、山鹿灯籠の文化が花開いたというわけだ。</p>



<p>現在、現役の灯籠師は全体で7名。うち5名が女性で、2名が男性、50〜60代が中心だ。認定を目指す見習いは3名いる。灯籠師の数はここ数十年横ばい状態だが、見習いは全員が20代で、中島さんは「山鹿灯籠の未来は決して楽観できる状況ではないが、悲観するほどでもない」と考えている。ただし、伝統を未来につなぐためには“問い”が必要、とも。</p>



<p>「祭だけでなく、伝統工芸品として購入し、日常的に使ってもらえるシーンを増やしたい。使用環境が限られていては、先細りしていくだけだ。そのためにはどんなものが売れるのか、消費者に山鹿灯籠を身近に感じてもらうためにはどうしたらいいのか……」。</p>



<p>中島さんは、常に問いを抱くことで、新しいものを世に出していこうとしている。「時代の変化やニーズに合わせて少しずつアップデートしていくことで、守れる伝統もあるはずです」。問いを抱きながら灯籠を作り続けること。その積み重ねが、山鹿の灯りを次の時代へとつないでいく。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54382/">問いを重ね、灯りをつなぐ。「山鹿灯籠の店 なかしま」中島弘敬さん／熊本県山鹿市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>約400年の歴史と伝統にアイデンティティーを。「小代焼ふもと窯」井上尚之さん／熊本県荒尾市</title>
		<link>https://nihonmono.jp/article/54356/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 20 Apr 2026 11:20:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[陶芸]]></category>
		<category><![CDATA[登り窯]]></category>
		<category><![CDATA[小代焼]]></category>
		<category><![CDATA[伝統工芸]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2110.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>言うならばサラブレッド。小代焼の大家とされる井上泰秋さんを父に持ち、約400年の歴史がある小代焼の中でも最大級の6基の登り窯を有する「ふもと窯」に生まれた井上尚之さん。その恵まれた環境は、誇りであると同時に、常に比較と評 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54356/">約400年の歴史と伝統にアイデンティティーを。「小代焼ふもと窯」井上尚之さん／熊本県荒尾市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2110.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>言うならばサラブレッド。小代焼の大家とされる井上泰秋さんを父に持ち、約400年の歴史がある小代焼の中でも最大級の6基の登り窯を有する「ふもと窯」に生まれた井上尚之さん。その恵まれた環境は、誇りであると同時に、常に比較と評価にさらされる場所でもあった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">自分のやりたいことは、本当に陶芸なのか</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1908.jpg" alt="" class="wp-image-54362" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1908.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1908-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1908-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>パチパチと薪がはぜる音がする。登り窯の斜面を駆け上がるようにして燃え広がり、焼き物に命を吹き込む炎の様子に、約400年もの間脈々と受け継がれてきた小代焼の歩みが重なる。</p>



<p>九州を代表する陶器の一つ、小代焼。1632年に細川忠利が陶工を伴い、熊本県北西部にある小岱山（しょうだいさん）のふもとに窯を開いたことが起源とされる。鉄分や小石粒を多く含む小代粘土を用いた素朴で力強い肌合いと、藁灰釉や木灰釉といった地元の自然から作られた釉薬を流しかける大胆なデザインが特徴で、シンプルながら奥の深さを感じさせる佇まいに魅力がある。2003年には国の伝統的工芸品に指定され、現在は荒尾市と玉名郡南関町を中心に11の窯元が残る。</p>



<p>中でも荒尾市府本にある「小代焼ふもと窯」は、現存する小代焼の窯では最大級の6基の登り窯を有し、多くの弟子を輩出してきた名窯だ。初代の井上泰秋さんは日本民藝館展の最高賞受賞をはじめ数々の作品展で入賞し、熊本の伝統工芸の発展に欠かせない存在として知られる。</p>



<p>1975年に泰秋さんの長男として生まれた井上尚之さんは、約400年の歴史と伝統の中に自身のアイデンティティーを取り入れ、イギリスの古い焼きものからヒントを得た​​独自の「スリップウェア」（器の表面をスリップと呼ばれる化粧土で装飾した陶器）が評判の人気作家だ。幼少期は欠けた陶器をままごとセット代わりにして遊び、将来は焼き物をすると当然のように思っていたが、高校時代にふと足を止める。自分のやりたいことは本当に陶芸なのか。迷いながら地元のデザイン専門学校に進学するも、答えは見えない。尚之さんは当時を振り返り「はっきり言って、ふらふらしていましたね」と、眉を下げて笑う。</p>



<h3 class="wp-block-heading">伝統的な小代焼とスリップウェアの融合</h3>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2148.jpg" alt="" class="wp-image-54363" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2148.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2148-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_2148-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>尚之さんは旅に出た。東京、栃木、沖縄と、泰秋さんの知人を訪ね、各地で焼き物やその現場を見せてもらうがピンとこない。だがなぜか、小石原だけが違った。小石原焼を代表する「太田哲三窯元」を見て、自然と「ここで勉強したい」と思えたのだという。その後、代表の太田哲三さんのもとで4年の修行期間を経て、実家であるふもと窯へ。はるか前を歩く兄弟子たちの姿に焦りを感じながら修行を重ね、ようやくろくろの前に座ることができたとき、尚之さんは途方に暮れた。いざ作れる状況に立ってみたら、自分が作りたいものが見えなかった。</p>



<p>そこでヒントとなったのが、太田さんのもとで学んだ技法の一つ「ポン描き」。釉薬を専用の容器から器の表面に流し出すことで線や模様を描く装飾技法だ。尚之さんはこの「ポン描き」に、イギリスに伝わる化粧土で装飾された陶器「スリップウェア」と近いものを感じ、古いスリップウェアや関連書物から“自分が作りたいもの”を探った。そして、小代焼とスリップウェアを融合させた独自のスタイルに辿り着いた。約400年の歴史と伝統にアイデンティティーを見出したのだった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">土地の素材と普遍の意匠から生まれるもの</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1822.jpg" alt="" class="wp-image-54364" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1822.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1822-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1822-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>尚之さんの作品は自ら採掘した小代粘土を用いる。釉薬となる灰には木や藁、焼成の燃料には松薪と、伝統的な小代焼と同様に地元の自然のものを使用。成形した粘土が乾ききらないうちに水で溶かした粘土を掛け流し、さらにその上にスポイトのような道具から水で溶かした別の色の粘土を垂れ流して模様を描く。</p>



<p>デザインは、イギリスの古い文献から選んだ普遍的な柄をベースに、独自に解釈して再構築している。「普遍的なものは人々から飽きられなかったからこそ今に伝わる」との考えからだ。波線やクロス、リボンのように見えるものまでバリエーションは多様。その伸びやかで躍動的な線からは、尚之さんの大らかで飄々とした人柄が感じられる。</p>



<p>現在でこそ多くの消費者から支持を得ている尚之さんの作風だが、作り始めた当時は「伝統的な小代焼ではない」と風当たりが強かったという。しかし、さる恩人から「十人中九人が敵でも一人は味方がいる。私は君の味方だ」との言葉をかけられたことが、尚之さんの心の支えとなり、今に繋がっている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">土と炎に問い続けるものづくりの姿勢</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1757.jpg" alt="" class="wp-image-54365" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1757.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1757-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/IMG_1757-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>尚之さんは、作品の焼成に6袋の登り窯を使う。今から約50年前、1977年に泰秋さんが完成させたものだ。数日間にわたって薪を投入し続けながら温度管理をする登り窯はガス窯に比べるとコントロールが難しく、「一生かかっても分からない」「窯の調子が作品の良し悪しを決める」といわれるほど。温度や酸素量など窯の内部の状態が均一にはならないために割れや歪みなどの不良も出やすく、「小代焼ふもと窯」の場合、製品化率は6割ほどに留まる。それでも薪から出る灰と炎の力が織りなす人智を超えた美に魅了される陶芸家は少なくない。一方、尚之さんは「登り窯を作品の良さの理由にも、言い訳にもしたくない」ときっぱり。何で焼くかは重要ではなく、できた作品の品質そのものを評価されるべきだと考えているからだ。</p>



<p>窯は使用を重ねるほどに内部が傷む。「小代焼ふもと窯」では耐用回数といわれる100回はとうに超えており、部分的な修理を繰り返しながら使い続けている。尚之さんは「登り窯にこだわりはないし、使えなくなったとしても対策は考えてあるから問題ない」とあっけらかんとしているが、「登り窯にしかない面白さはある」と、その魅力を認めてもいる。</p>



<p>長い迷いと葛藤を経て、歴史と伝統の中に自らの居場所を見つけた尚之さん。今、その隣には、鳥取県「岩井窯」での修行を終え、「小代焼ふもと窯」の三代目として2024年に実家へ戻った息子の亮我さんの姿がある。小代焼の伝統そのものだけでなく、土と炎に問い続けるものづくりの姿勢も、また次の世代へと受け継がれようとしている。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54356/">約400年の歴史と伝統にアイデンティティーを。「小代焼ふもと窯」井上尚之さん／熊本県荒尾市</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>100年後の森へ、今日も向き合う。「王子ホールディングス」／北海道夕張郡栗山町</title>
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		<dc:creator><![CDATA[devnakata]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 03 Apr 2026 01:11:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[「にほん」の「ほんもの」を巡る旅]]></category>
		<category><![CDATA[製紙業]]></category>
		<category><![CDATA[洋紙]]></category>
		<category><![CDATA[王子HD]]></category>
		<category><![CDATA[段ボール]]></category>
		<category><![CDATA[衛生用紙]]></category>
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					<description><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/7.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「日本資本主義の父」とも呼ばれ、日本初の銀行の設立、鉄道･保険･製紙など幅広い産業の基盤を作った実業家･渋沢栄一の尽力により1873年に設立された「抄紙会社（しょうしがいしゃ）」をルーツに持ち、150年の歴史を誇る王子ホ [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54273/">100年後の森へ、今日も向き合う。「王子ホールディングス」／北海道夕張郡栗山町</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/7.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>「日本資本主義の父」とも呼ばれ、日本初の銀行の設立、鉄道･保険･製紙など幅広い産業の基盤を作った実業家･渋沢栄一の尽力により1873年に設立された「抄紙会社（しょうしがいしゃ）」をルーツに持ち、150年の歴史を誇る王子ホールディングス。国内民間最大級となる約19万ヘクタールの社有林を擁し、北海道栗山町で100年前から木を植え、森を育て、今もなお100年後の収穫を見据えた森づくりを続けている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">渋沢栄一から受け継ぐ、150年の「やり遂げる」意志</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/1.jpg" alt="" class="wp-image-54276" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/1.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/1-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/1-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>北海道中部に位置し、町域の約半分を森林が占める夕張郡栗山町。かつて夕張炭鉱の盛栄とともに発展し、元日本ハムファイターズ監督の栗山英樹氏が自身の名にちなんだこの地に少年野球場「栗の樹ファーム」を構え、20年以上交流を行っていることでも有名な町である。この町の山間部、見渡す限りの雪景色の中に広がる大森林。ここは王子ホールディングス（以下･王子HD）が保有する社有林だ。その歴史をさかのぼれば、1873年に明治の実業家･渋沢栄一が深く関わり、抄紙会社を設立したところに行き着く。当時の日本では和紙が主流で、西洋式の技術で大量生産できる洋紙はまだ存在しなかった。それを自分たちの手で作ることは、情報を広く伝えるための出版や新聞を支え、国家の近代化を進めるために欠かせない挑戦だった。操業当初は赤字が続く苦境に立たされたが、渋沢はそれでも諦めなかった。その「やり遂げる」精神が、150年続く同社の揺るぎない礎となっている。</p>



<h3 class="wp-block-heading">原料は、自分たちでも育てる</h3>



<p>創業当時の紙の原料はボロ布。その後、文明の発達に伴い、増え続ける紙の需要に対応するため、1889年には木材から紙をつくる製造技術を開発。1930年代からは将来にわたる原料の安定確保のため森林の育成に取り組んできた。現在、同社が国内に持つ森林は大阪府の総面積とほぼ同じ約19万ヘクタールに及び、民間企業としては国内最大規模を誇る。北海道ではトドマツやカラマツ、本州ではスギやヒノキなど、その地域に昔から自生していた木を中心に植え、育て、収穫する。この北海道栗山町の森を担うのが、王子木材緑化の小笠原哲彦さん、佐藤有さんだ。</p>



<h3 class="wp-block-heading">事業が、森を豊かにする</h3>



<p>同社が森を持ち続ける理由は、シンプルだ。「木を使うものは、木を植える義務がある」。その一点から始まった営みが、森を育て、水源を守り、川下の農業を潤すという恵みを生んでいる。森が育てば水が清くなり、川下の農業や海（漁業）にも恵みが及ぶ。数値で証明できるものではないけれど、「そういった効果はあると思います」というのが、彼らの実感だ。事業を続けた先に豊かな自然があるという事実を、150年という時間が静かに証明してきた。</p>



<h2 class="wp-block-heading">マイナス20度冬の森で、収穫は最盛期を迎える</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/44.jpg" alt="" class="wp-image-54277" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/44.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/44-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/44-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>同社の北海道の社有林では、厳しい冬こそが収穫の最盛期となる。気温が氷点下まで下がり、雪が深く積もる北海道の冬こそが、質の高い木材を収穫するための適期なのだ。そこには、北国ならではの合理的な理由がある。</p>



<h3 class="wp-block-heading">冬の森が、最高の木材を生む</h3>



<p>木は冬になると休眠状態に入り、内部の水分量が低くなる。夏に伐（き）ると樹液がどっとあふれ出るが、冬の木は締まったままの断面を保ち、乾燥も早く、長持ちする良質な木材になるのだという。さらに、氷点下の冷気が地面を凍結させたり、積もった雪がクッションになることで数十トンの重機を乗り入れても土壌を傷つけずに済み、凍結しているほうが丸太が滑って運びやすいという点でも、冬は林業に適した季節だ。「木は水分を蓄えているので、活動を止めて乾燥している冬に行うほうがいい木が採れる」。そんな北国ならではの知恵を、佐藤さんたちは自然体で語る。</p>



<h3 class="wp-block-heading">機械では補えない、山師の眼</h3>



<p>彼らはいわば現代の「木こり」だ。雪深い森の中で重機を操りながら、その土地の水の流れや植生のバランスをすべて把握している。「ここは切ってはいけない。ここを切ると水が枯れてしまう」。そう話すように、長年の経験に裏打ちされた五感で判断を下し、100年後の森の姿を想像しながら、今どの一本を収穫すべきかを導き出す。最新鋭の機械が導入され安全性や効率は飛躍的に高まったが、最後は彼らの眼力が森の未来を決定づけているのだ。</p>



<h2 class="wp-block-heading">1分で丸太へ。実業が生む「無駄のない」循環</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/10.jpg" alt="" class="wp-image-54278" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/10.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/10-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/10-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>かつてはチェーンソーを手に人が命がけで斜面を歩いた現場も、現在は高度な機械化が進んでいる。安全性が高まり、若い世代も参入しやすくなったことで、深刻だった担い手不足にも変化の兆しが見え始めている。</p>



<h3 class="wp-block-heading">1分で丸太になる、ハーベスタの仕事</h3>



<p>機械化を象徴するのが、伐倒（ばっとう）から枝払い、丸太の切り出しまでを一手にこなす重機「ハーベスタ」。搭載されたコンピューターは木をつかんだ瞬間に曲がりや太さを瞬時に判断し、最も価値が高くなるようなカット数を計算する。雪を蹴立てる音とともに、わずか1分足らずで規定の長さへと切り揃えられていく。人数を抑えて安全に働くための不可欠な知恵であり、残った枝の先までもがバイオマス燃料の材料として活用され、森の資源を余すことなく活用している。</p>



<h3 class="wp-block-heading">紙の需要は、世界とともに広がる</h3>



<p>こうして森から生まれた木材は、建築材や家具材として、また製材には向かない低質材はチップ化して、紙をはじめ、段ボールやバイオマス燃料などさまざまな姿へと変わっていく。デジタル化が進む今、紙の役割が変わりつつあるのは確かだ。しかし新聞などの情報メディア向けの需要が縮小する一方で、そもそもその比率は王子HDの売上の中でそれほど大きくない。むしろ「包む」「拭く」という暮らしに根ざした用途の需要は世界的に高まり続けており、「段ボールや衛生用紙はなくなるどころか増えていく」とふたりは話す。ネット通販の拡大がその需要をさらに後押ししている。紙を作り、その紙をリサイクルしてまた段ボールへ。「そこまで一貫してやっているところはなかなかない」とふたりが口をそろえるように、原料育成調達から製造、リサイクルまでを自社で完結させる仕組みは、世界的にも珍しいビジネスモデルだ。現在は木からプラスチックや医薬品を作る研究にも取り組んでおり、森林資源を未来の成長産業へとつなげようとしている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">100年後のリレー。終わりのないバトン</h2>



<figure class="wp-block-image size-full"><img decoding="async" width="825" height="550" src="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/55.jpg" alt="" class="wp-image-54279" srcset="https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/55.jpg 825w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/55-300x200.jpg 300w, https://nihonmono.jp/wp-content/uploads/2026/04/55-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></figure>



<p>現在、日本の多くの森が手入れされずに放置されている。最大の理由は、森を健やかに保つ営みがすぐには収益に結びつかないからだ。王子HDのような企業が事業として本気で森に向き合い続けることが、日本の林業全体を底から支えることにつながっている。</p>



<h3 class="wp-block-heading">事業としての森が、日本を守る</h3>



<p>一本の苗木を植えただけでは社会はすぐには変わらない。しかし事業として継続できる規模で植え続けることには、未来を変える力がある。木を育て、適切に収穫し、経済を回していくことが、結果として次の世代に健全な環境を残すことにつながっていく。「次の世代の人たちにも森を引き継ぎ、更に良い森づくりを行ってくれたら」と話すふたりの言葉は、静かだが力強い。確かな覚悟が、言葉の奥に宿っている。その背景には、日本の森が抱える現実がある。手入れされない森はやがて荒れ、水源が失われ、土砂災害のリスクも高まる。しかし現実には、担い手不足と高齢化により、多くの森が手入れされないまま放置されている。木は人間が意志をもって作り出すことのできる再生可能な資源だ。そして、世界中のメーカーが石油に頼ってきたモノづくりを、木材をはじめとするバイオマスに置き換えていく取り組みを加速している。王子HDが事業として森に向き合い続けることは、日本の自然そのものを守ることでもあるのだ。</p>



<h3 class="wp-block-heading">今植える木は、孫の代へ</h3>



<p>今日植えた木が収穫されるのは、はるか先、孫の代の話だ。スギ･ヒノキで40〜50年、北海道のトドマツやカラマツは60〜70年。植えた苗木を伐るのは孫の代になる。「先代が植えたものを今収穫し、今植えるものは100年後の後輩に託したい」とふたりは話す。自分が生きている間には完結しない仕事を、それでもひたむきに続けていく覚悟がその言葉ににじむ。「森林をしっかり育てて、そこから作れるいろんな素材を研究して社会に届けるのが使命」。その言葉が示すように、150年前に渋沢栄一が描いた志は今も生きている。終わりのない「100年単位のリレー」を事業としてつないでいく。その営みが、日本が誇る豊かな水と緑を、そのままの形で未来へ手渡していく。</p><p>The post <a href="https://nihonmono.jp/article/54273/">100年後の森へ、今日も向き合う。「王子ホールディングス」／北海道夕張郡栗山町</a> first appeared on <a href="https://nihonmono.jp">NIHONMONO</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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